文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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「ここはどこ?」 「私は誰(何者)?」

 世の中を見渡せば、「これは上手くできた仕組みだなぁ」と感じるものもあれば、「よくもまぁ、こんなひどい仕組みのなかで、皆よく我慢している(あるいは無感覚で受け容れている?)なぁ」と思われるものもある。ある仕組みが、たとえそれが世の中では「誠に結構なものである」との評判を取っていたとしても、私としてはそれに取り込まれるのは御免被りたい(あるいはキライ)ということもあるし、「ひどい仕組みだ」と評価されていたとしても、自分から見れば逆に人々(特に当事者たち)の本性に合っているから肯定できる(あるいはスキだ)ということもあり得る。
 人間について言えば、その人物の社会的な地位など、つまり職業・年齢・男女の別とか、また“偉い”地位に就いている人か普通の庶民であるかとか、さらに世の中の評判とかに関わりなく、「この人、本当に深みのある人だなぁ....」と内心敬服できる人物もいれば、「えっ?何だコイツ!」と呆れてしまうヤツもいる。もちろん、その人物が深みがある人格者だから(世間の評判であるか自分の印象であるかは別にして)と言っても、私としてはどうにも好きになれない(どちらかといえばキライだ)という人物もいれば、確かに評判通りのとんでもないヤツであっても、それだからこそスキだ、ということもあり得る。つまり、世間の評判や場合による仕組みや人物に対しての善い(良い・佳い)印象や評価があるからと言っても、それは必ずしも自分の見立てとも一致するとはかぎらないし、さらに「スキだ」ということにもならない。逆に評判が善く(良く・佳く)ないからと言っても、自分の見識による評価と同じになるとは限らないし、「キライだ」ということになるとも限らない。世の中の善・悪の評判と好む・好まないとの感じ方、それと自分のそれとの関係は単純なものではない。
 
 どのような世の中の仕組みや人々に対するにせよ、自分がある印象を持ったり、選択したり、判断したりするのは、その時点で自分のなかにできあがっている(意識的あるいは無自覚的に形成された)ところの何らかの基準よってである。では、その基準はどのような構造をもっているのだろうか。ある程度は真面目に自分の人生と人格に責任あるいは誇りを持って生きようとするのであれば、これはぜひとも分析・思考するのに値する実に身近で重大な問題ではないだろうか。
 私たちは日々の生活のなかで常にあれやこれやの選択・判断をしながら、あるいは選択・判断を迫られながら生きている。しかし、その際に自分がするそのような選択・判断の基準について無知であったり理解が浅いとすれば、独り立ちして生きていると思っている、あるいはそう思いたい自分とはいったい何者なのか、という不安が募りはしないか。自分の日常の行為や思ったことについて一日に3回の反省(通俗的な意味での)をせよとまでは言わないが、しかしその基準のことについては、少なくとも時々は通り一遍の反省よりもさらに一歩深めた沈思黙考・再考をしてみるべきではないだろうか。ただ「空気を読んで」流れ(往々にして濁流だが)に身を任せ、その場しのぎのご都合で「生物現象的時間(マトモな人生とは思えないので敢えてこう表現してみたが)」を取り繕って過ごすことは、たとえ「これが私の人生です」と胸を張ったとしても、それは自分を失った付和雷同の時間のやり過ごし方そのものである。言うまでもなく、本人がそのような生き方、万事を付和雷同の原則でやっていく処世の方法を「善し/良し/佳し」と自覚的に選択しているのならば話は別だ(たしかに一応それは他人からとやかく言われる筋合いのないことであり、本人の勝手ではありますが.....)。

 さて、その選択・判断の基準についてであるが、ある時に一念発起して意識的に設定し、強い意思の力で堅持し続けているものもあるだろうが、大抵はこの世に生まれてからほぼ無意識のままに段々と形成されてきた(いわゆる「刷り込み」によって)ものがほとんどであろう。確かに各人には生来のDNA由来の性質(しかも万人が一様に同じというわけではなさそうだ)があることは否定できないものの、しかしそれだけですべてが決まってしまうということではなさそうだ。生まれ育った家庭の環境(家風・文化・価値観・教育・躾など)を通して、そして成長してからは社会の環境(政治経済のシステム・文化・風俗や習慣・雰囲気・流行・価値観など)や人生経験(人との交流や読書など)の不可避的な影響に包まれながら、各人の葛藤を経ながら、徐々に形成され続けていくものであり、いのちの尽きるまで終ることがない。こう言ってしまうと、自分のもっている選択・判断の基準は環境によって形成されたのであるから、究極のところは本人の責任ではないと受け取られてしまいそうだが、そうではない。自分が人生を真面目に生きようとし、自立的かつ自律的に生きようとするのならば、自己はそれなりに確立されねばならないし、何より自分が自分に責任を持って生きねばならない。そのためには自分の基準についての検証と再認識と再確認が必要であり、これを通してはじめてその基準を本物の自分の基準にすることができる。だからこそ先に述べた沈思黙考・再考が必要とされるのであり、自分が自分を良く知り理解する必要がある。そして内心の自由はここからしか生じてこない。内心の自由のない所に人間の生きる自由もあり得ない。自分の心の自立と自律のない所に自由は存在のしようがないし、自分の人生に自由であることと責任を持つこととは、表裏一体のものである。人間は社会的な動物であること、人々と何らかのかかわり合いをもって生きるものである以上、自分がどのような基準をもって生きるのかということは、自分以外の人々の人生とも関わって来ることでもあり、未来に生まれて来る人類の後代にも影響を及ぼすことでもある。

 
 では、自分の選択・判断の基準が育まれた土台である家庭環境や社会環境はいったいどのようなものであり、どのような性質を持ったものであるかを知り、理解するにはどうすればよいのか。そのためにはそれ相応の知識と評価眼・価値観が必要である。
 家庭は社会とつながりをもっており、社会はより広い社会(国家や国際社会)とは無関係ではない。そればかりか、時間の上でも過去に生きた先代たちやその社会とつながっている。つまりその時々の生活の場という平面としての横の広がりと、その時々に至るまでの時間上の縦の軸(歴史、由来、来歴と言っても良い)がある。そしてこの縦・横のことは自分で学び・調査してみるしかないし、さらにそれを通して得たいろいろな知識は個々バラバラの断片の集積であっては役に立たないのであって、縦軸と横面が結びついた、連動し合ったものとして理解ができる「教養」にまで高められていなければならない。これこそが本来の学問の意味と必要性なのである(特に高等教育機関としての本来の「大学の存在価値」はここにある)。学問をするということは、しっかりとした自分の基準・価値観をもとうとすることであり、自由を獲得し、広げていくこと、人生を生きる人間の内面に豊かさと厚みをもたらすことが主目的なのであって、近代以降に流行の、できるだけ少ない苦労・労力で、都合よく、世間の波に乗ったいわゆる“経済効率性の高い”“お得な”生物現象的時間を過ごすための知識・技術・技能や資格の獲得だけが目的なのではない。もちろん知識・技術・技能・資格は、それを使うこと自体が社会の公益(当然のことながら社会の安全を含む)と直結する事柄であり、それを第一の意義として伝承され発展してきた人類の共有の財産なのであるから、自己満足に陥ることなく真面目に習得せねばならない。公益が図られることが前提となり目的とされているから報酬・収入がもたらされるのであって、その逆ではない。そうした公益を図ること、つまり人々とのつながりを保って生きることが人間の生存の仕方であり人生なのであれば、その当事者である自分を支え続け、より豊かに公益を図るためには、その個人の内心の自由が必要とされるであろう。つまり、その内心の自由を得るために、自分の人生に対する責任を厚くするために、自分に負荷をかけ続けることこそが学問をすることである。負荷などと言うと、それは苦行なのか、と思われるかもしれないが、見識の広さと深さが増し、自分や他者(人ばかりでなく仕組みについても)への理解が深まれば、新たな精神的境地に達することができ、たとえばより高い所からより広い視野を得るような、何がしかの心の豊かさを感じ取ることができるようになる。そういう意味で、学問をすることは心の味覚を豊かにすることであり、あじわいのあることであって、苦行と同一視できない。もちろん、自分が自分の人生に対して主体的な興味と関心、そして「こころざし」をもっていることが先に立っていなければならず、もしそうではなくて目先の利害損得だけのため、あるいは他者(人や仕組み)からの強制によるものであれば、それは苦行に似たものになるだろう。

 
 ついつい話が小難しくなってしまいましたが、要は自分の人生をより自由に、より自立的・自律的に生きるにはどのようにするか、ということでした。その第一歩、そしてまた帰着点は:「ここはどこ?」-----いま生きているのはどのような時代と社会であり、「私は誰(何者?)」----自分をどのような人間に形成して人生を生きようとしているのか、という根源のことを問うことにあると思います。それは価値観に関わる問題ですし、決して終生尽きることのない、何度も反復しながら質を高めていく「問答の営み」なのではないでしょうか。
 紙幅の関係上、かなり舌足らずの感もありますが、続きや関連事項は本ブログの次の機会(3〜4ヶ月後?)に譲ることにします。
 

准教授 窪田忍
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by bwukokusai | 2014-03-27 09:00 | 教員コラム

「敬語行動」をめぐる日韓比較 …浮かび上がる「相手(二人称)」と「集団」の重さ

韓国語は日本語と同じように敬語体系を持つ世界でもごく少数の言語のひとつです。尊敬語や丁寧語が韓国語にもあります。しかし、日本語と韓国語の敬語には興味深い違いもあります。今日はこの点について少し整理することで、日本社会の特徴の一端について考えてみたいと思います。

両言語の敬語の違いとして指摘できることのひとつは、いわゆる「相対敬語」か「絶対敬語」かの違いです。
韓国語では、例えばうちに電話をかけてきたお父さんの会社の人に対して子どもが次のような答え方をします。

「お父様は今食事をしていらっしゃいます。」

つまり、韓国語では、目上の者(上司や父親)のことを話題にするときは話し相手が誰であろうと上位者として待遇するわけです(絶対敬語)。
それに対して、日本語では、電話をかけてきた取引先の人物に対して社員は次のように答えます。

「部長の佐藤は、ただ今席をはずしております。」

日本語では、たとえ上司のことであってもソトの人に話すときは、「おります」と謙譲語を使い低めた扱いをします(相対敬語)。
(韓国語についての情報は仁・井出(2004 ,p.120~124)、斉藤明美(2005,p.83~88))

この「相対敬語」か「絶対敬語」かの違いは、敬語を使用する上で「相手(二人称)」の存在に対してどれだけのウエイトを置くかの違いといえます。話す「相手」が誰であれ目上の人を話題にする時には上位待遇をするのが絶対敬語の韓国語。たとえ目上であっても、話す「相手」によっては低めた扱いをするのが相対敬語の日本語です。つまり、日本語においては「相手」が敬語選択の上で重要な位置を占めているわけです。このことは、日本人にとっての「相手」の存在の大きさを示す現象のひとつとして注目されます。
 
もうひとつ、日本語の敬語と韓国語の敬語とをくらべて注目されるのは、敬語の選択に占める「年齢」のウエイトです。日本語においても年齢は敬語選択の重要な条件のひとつになっていますが、韓国語とくらべた場合、興味深い違いが浮かび上がります。それは、「年齢」と「集団への参入年次」が食い違った場合、そのどちらが優先されるのかの問題です。
一般に大学では浪人等によって同一の学年にも年齢差が見られます。この点は日韓に変わりはありません。ところが、日本では「学年」が大きな位置を占め、同学年であれば年齢差(浪人と現役等)があっても、通常、

「明日のパーティ、行く?」
「うん、行くよ。」

のように、ともに非敬語が使われます。さらに、次の例のように、サークル活動等において、年上の後輩年下の先輩に対して丁寧な表現を使い、いっぽう年下の先輩が年上の後輩に対してぞんざいな表現を使う(二浪と現役のような場合)ということも普通に行われています(親子ほどの明確な年齢差がある時は違うでしょうが)。

年下の先輩「お前、明日のパーティ、行くの?」
年上の後輩「ええ。行こうと思ってます。先輩はどうされます?」

つまり、日本の大学生の間では、通常「学年」という組織内序列が「年齢」という個人的属性を抑え、敬語使用の条件として優先的に働いているわけです。いっぽう、韓国では年齢が重視され、同学年であっても年上の者には丁寧な表現を使わなくてはならないといいます(斉藤(2005)p.5)。さらに、本学で学ぶ複数の韓国人留学生に確認したところ、後輩であっても1歳でも年上ならば丁寧な表現が使われるそうです(その際、年上の後輩も年下の先輩に対して、上級生であるからとして丁寧な表現を使うといいます)。
キャンパス内において年齢という個人的な属性は無視され、集団への参入年次が敬語選択の条件として優先的に採用される日本と、集団の中でも参入年次以上に年齢という個人的な属性が重要視される韓国。この日韓の違いは、日本人にとっての「集団」の存在の大きさを物語っているように思われます。

もっとも、複数の韓国人留学生(入隊経験者含む)に確認したところ、敬語を使うか否かにおいて、軍隊では年齢よりも隊内の序列の方がより優先されるようです。また、先に話題にした絶対敬語か相対敬語かについても、韓国においても階級や職階等の明確な軍隊等の集団においては、「(話題にする)第三者が自分より年齢や職階の高い人であっても、その人より年齢や職階がさらに高い人の前ではその人を高められない」という相対敬語的な敬語法(押尊法)があるとのことです(ホン ミンピョ(2007)p.90)。
韓国語とくらべて浮かび上がった日本語の敬語の特徴が、韓国の軍隊内における敬語の特徴とは重なる点があるというのは、興味深い現象に思えます。


参考文献:
加藤薫(2014)「世間論と日本語 ―世間論に符合する日本語の文法的特徴―」『世間の学 VOL.3』日本世間学会
斉藤明美(2005)『ことばと文化の日韓比較』世界思想社
仁栄哲・井出里咲子(2004)『箸とチョッカラク』大修館
ホン ミンピョ(2007)『日韓の言語文化の理解』風間書房



教授 加藤薫
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by bwukokusai | 2014-03-18 09:00 | 教員コラム

「大人」になるための条件は?

卒業シーズンですね。文化学園大学の卒業式は、例年3月11日に行われます。東日本大震災の日です。これまでの社会や生活のあり方を根本から問い直す機会が与えられたこの日に、文化学園から今年も新たな卒業生が巣立っていきます。当然のことかもしれませんが、この3月11日に門出を祝うことには、やはり格別の思いを抱かずにはいられません。

今日は、この時期になると思い出す新聞記事について書いてみます。哲学者の中島義道さんが、2009年4月16日の朝日新聞に寄せた文章です。社会人になりたての若者を念頭に置いたと思われるこの記事には、「大人になる君へ、他人のせいにしない」というタイトルがついています。関心のある方はインターネットで調べてみてください。

記事の冒頭で、中島さんはまず、「大人になるとはすなわち感受性も思考も凝り固まっていくこと」と述べ、良い意味で読者の期待を裏切ってくれます。彼には、分別顔で「世の中そんなに甘くない」と説教するつもりなどさらさらないのです。哲学用語を使って「大人」を定義づけようとしているわけでもありません。そうではなく、とても具体的な「大人」になるための条件をあげているのです。ひとつは、経済的に独立すること。これ以上わかりやすい基準はありませんね。そしてこの第一条件と同じくらい重要な条件として、彼は「他人に依存しない生き方を実現すること」をあげています。これは、ハードルの高そうな基準ですね。でも、「人間関係を自力で開拓せよ」と文章は続けられていますので、「一切他人の世話にはなるな」と言っているのではないでしょう。そして、この二条件を備えたうえで、困難に直面した時でも、「なるべく(この緩やかな言い方が良いですね)他人のせいにしない」姿勢を培っておけば、「強く柔軟で深みのある大人になれる」と結ばれています。

中島さんのメッセージは、すでに「大人」になっているはず(?)の私自身にも直接響いてきます。いったいどのようにすれば、「他人のせいにしない、強く柔軟で深みのある大人」になれるのでしょう。ついでに、私の専門である国際政治の分野にまで視点を広げてみましょう。国際社会で頻発する紛争の原因は多様ですが、敵対者にその責任のすべてを負わせようとする、つまり「他人のせいにする」特徴は、どの紛争にも共通して確認できます。このような善悪二元論的な状況に陥りますと、相手を排除する発想しか生まれません。でも現代の国際社会で、異質なものや対立するものを排除することで解決できる問題は一つもありません。

このように、私自身の研究を進めていく上でも、中島さんの提言は示唆的です。個人として「大人」になっていくのと同じように、国や社会も「大人」になることが切に求められているのだと思います。

教授 中沢志保
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by bwukokusai | 2014-03-11 10:00 | 教員コラム

「僕らの出会ったコダイライフ」ポスター展・制作発表会


本学科の国際観光コース2年生が、嘉悦大学経営経済学部の学生とともに取り組んだ「僕らの出会ったコダイライフ」ポスター展・制作発表会が、3月2日(日)に多摩六都科学館(西東京市)にて行なわれました。
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この取り組みは、小平市大学連携協議会(愛称:こだいらブルーベリーリーグ)地域PR部会の事業として、本学科のある小平市の魅力を学生の視点から切り取り、「人」をモチーフにしたポスターを制作したものです。「僕らのであったコダイライフ」とは、学生たち=「僕ら」が、マチに出て出会った人々の暮らし=コダイラ・ライフ→「コダイライフ」を表現したプロジェクト名です。古代ライフではありませんのでご注意を。

学生たちは、昨年10月から、小平の魅力ある活動や人々をリサーチして、インタビューと写真撮影を行いました。取材をもとに、写真を選定し、キャッチコピーやエッセイを執筆して、計13枚のポスターが完成しました。
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制作発表会では、取材に協力していただいた市民の方や市内の大学関係者、小平市長をお招きして、ポスターをお披露目。13枚のポスターが展示された会場は、壮観です! 学生たちは、制作発表会の前に、一生懸命、プレゼンの最終確認をしています。
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プレゼンテーションでは、ポスターづくりの取材で苦労したこと、ポスターを通して伝えたいと思ったことなどを、自分の言葉で伝えてくれました。
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取材に協力してくださった方からも「こんなに立派なポスターになるなんて、思っていなかったよ」とお褒めの言葉をいただきました。
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このポスター展は、3月9日(日曜)まで、多摩六都科学館で展示されるほか、小平市内で巡回展示されます。

○小平市役所1階 ロビー北側 3月17日(月曜)~28日(金曜)
○ルネこだいら 情報ロビー 4月15日(火曜)~5月14日(水曜)
○小平市中央公民館 ふれあいプロムナード 5月16日(金曜)~31日(土曜)

力作ぞろいのポスター、是非、ご覧ください。

文化学園大学は、小平市大学連携協議会(こだいらブルーベリーリーグ)に参加しています。
大学連携協議会については、こちら(外部リンク 小平市HP)
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by bwukokusai | 2014-03-04 09:00 | ニュース&トピックス