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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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心に残す話

 最近直接お聞きして、心に残ったお話をふたつ紹介します。

 本学では12月4日に秋期特別公開講座を開催し、染織研究家の岩立広子氏をお招きして「布をめぐる旅~インド・アジア諸国の布の豊かさを未来に繋ごう~」という題でご講演いただきます。岩立先生は現地の人々の協力により蒐集された世界各国の優れた染織品を、一般に向けて展示・紹介するため岩立フォークテキスタイルミュージアムを設立され、その館長もされているのですが、今回の公開講座をお願いするに際して先生にご挨拶に伺ったとき、その展示を見せてくださったのです。
 
 インドを中心に世界各国の布や、布で作られたさまざまな服飾品が展示されていましたが、その中に、色とりどりの糸で織られた小さな可愛いポーチがありました。その近くには写真がありましたが、色黒の肌にやはりさまざまな色の糸で織られた腰巻きをまとった女性が映っていました。ポーチも腰巻きも、その色合わせといい、模様といい、複雑でそしてとても美しいものでした。

 このポーチを見た瞬間に私がふと思ったのは「これほしいな、どこかで売っていないかな」ということです。すると、岩立先生はこのようなことを説明されました。

「この地域に私は実際に行きましたが、土地がやせて非常に貧しいところなんです。わずかな作物しか取れないため、現金収入が限られているんですね。そして、取れたわずかな作物を売って、これを作る材料を買うのです。もちろん、一度でこれを完成できるほどの量を買えるわけではないので、少しずつ買って、少しずつ作る。一代でできなければ、その子孫が続けて作っていく。そして、代々それを受け継ぐのです。食べることも大変な人たちが、このように美しいものを作るために、それを持つために代々このような営みを行なっているわけです」
 

 ショックを受けました。自分が浅ましい視点でしかそのものを見ていなかったと気づいたためでもありますが、強く感じたのは、人にとって美しいものというのはどれだけの価値があるのか、自分はそこまでの歴史と感情をになうものを持っているかということでした。また、持っていたとしてもそれを彼らのように正しく敬えるのか、そのものがもたらす喜びを正しく感じられるのだろうかということについても我が身を振り返らざるを得ませんでした。

 もうひとつのお話です。

 先日、本学の大学院生活環境学専攻で行なわれているオムニバス授業に、AARJapanの近内みゆきさんが来られて講演をされました。AARは「難民を助ける会」という名前で設立されたNPO法人ですが、今は各国で国際支援の活動をしています。彼女は2011年のトルコ地震の支援のために現地に行き、そこで泊まっていたホテルの倒壊に巻き込まれました。国際支援活動のお話とともにその時の話もしてくださったのですが、私が最も心に残ったのは、彼女ががれきの中に閉じ込められた時の判断についてのお話です。

 5階建てホテルの4階の部屋にいた彼女は、余震のため5秒で崩れ落ちたホテルの中に閉じ込められました。気づいた時にはがれきの中に埋もれ、目にも耳にも口にも土砂が詰まっており、五感がきかない状況だったそうです。そういう場合はまず目が使いたくなる、見たくなるものなんですね、と言われてから、次のような内容を話されました。

「目を開ける前に考えました。もし、ここで目を開けて、周りの状況が絶望的なのを知ったら、私は落ち込んでもう助かる意欲を失ってしまうかもしれないと。でも、私は、どんな状況でも落ち込まない、と自分に約束して、目を開けてみました。」

 結局開けた目で見た状況を冷静に判断し、さらに目を閉じ耳に集中して得た情報からも助かる可能性を探っていった近内さんは、無事救出されます。

 「どんな状況でも落ち込まない」と自分に約束できる、ということは、その時の絶望や恐怖に心がとらわれていなかった、または、とらわれないように努力していたということだと思うのです。逆に言えば、心が「もうだめだ」と決めつけてしまおうとすることが、人の判断を鈍らせ、結果、可能性を失わせていくのだということを彼女のお話から学びました。

 きっと私はこれらの話を忘れないでしょう。話として意識の上にのぼらなくなっても、このような生き方があったという記憶は、いつか私が行き詰まって助けを必要とするとき、とるべき道に迷うとき、また、間違った判断に傾きそうになったときに、心を下から支えてくれる気がします。


*岩立フォークテキスタイルミュージアムのHP
  http://www.iwatate-hiroko.com/index.html

*文化学園大学 秋期特別公開講座
  「布をめぐる旅~インド・アジア諸国の布の豊かさを未来に繋ごう~」
  12月4日(火) 16:30~18:00 文化学園大学 新都心キャンパス A201教室にて
  HP:http://bwu.bunka.ac.jp/news/detail.php?id=1003

准教授 星 圭子


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by bwukokusai | 2012-10-30 10:44 | 教員コラム

イメージする力

 今年に入ってから、マインドマップの研修会と記憶術の研修会に参加しました。いろいろ教えていただいたのですが、どちらの研修会でもイメージすることと感動することの大切さが心に残りました。今回はイメージすることの大切さについて書きたいと思います。
 マインドマップって聞いたことがありますか?脳の力を強化する思考技術のことで、発想を広げるとき、考えをまとめるときに最適な方法です。紙の中央に絵を書きそこからウネウネと5~6本主要な枝を伸ばし、その上に言葉を書き、さらに、連想で言葉と枝を広げていきます。例えば、自己紹介のマインドマップを書く場合、中央に似顔絵や動物など自分のイメージを書き、その絵から家族・仕事・趣味・好きな食べ物など主要な枝を出し、さらにそれぞれの枝を広げていくのです。記憶術の方は、従来研究開発されてきた様々な記憶術を再構築されたものを学びながら、たくさんの事柄を記憶するための力を訓練するものでした。
 マインドマップでは、まず、書きたいもののイメージを紙の中央に様々な色ペンを使用して書きます。絵は小さい頃から苦手意識があるのですが、色を選んだり塗ったりしていると結構楽しくなってきます。中央にどんな絵を書くか考えたり、無心で色を塗ったりしていると、新しいアイデアが生まれることがあるのも面白い点です。
 記憶術では、数多くの事柄を一度に記憶し、忘れないようにするためにイメージする力がさらに重要となります。教えていただいた記憶術はすべて「イメージ〇〇法」となっており、研修会ではイメージ力を訓練する時間も取られていました。例えば、自転車をイメージするとき、それはどっちを向いているのか、どんな型の自転車かなど、なるべく細部に至るまで具体的にイメージするようにします。次にもう一つのものと関連付ける練習をします。ひまわりと関連付けるとしたら、例えば大きなひまわりの花が自転車をこいでいるというようなイメージを作ります。自転車とひまわりが肩を組んでいるというようなイメージでもいいです。このイメージはなるべく極端に、そして自分の感情に訴えるようなものにするとインパクトがあります。慣れてくると、自分で作り上げたイメージに思わず笑ってしまったりするほどになります。2日間の研修でほぼ全員がそれほど苦労なく160個の単語を覚えることができるようになりました。
 ところで、担当している科目に「日本語学概論」があり、日本語表記のルールについて簡単に触れます。オ列長音の話のときに、学生からある覚え方を教えてもらいました。それは、「遠く(とおく)の大きな(おおきな)氷(こおり)の上を多く(おおく)の狼(おおかみ)十(とお)ずつ通る(とおる)」という文です。聞いてみると小学生の頃に習ったといいますから、その記憶の定着度は素晴らしいですね。この文の持つ何となくロマンチックなイメージに負うところが大きいのではないでしょうか。
 件の記憶術講習会には小学生も参加していました。自分の隠れた力を十分に生かすための技術を手に入れることは価値のあることだと思います。もっと若いときに受講したかったなぁと思いました。

 さて、6月に読書感想マインドマップコンテストがあり、投稿しました。未熟なものですが、お目にかけます。このブログで取りあげられていた『舟を編む』が課題図書の一つでしたので、それを読みました。秋にも行われるので、また投稿しようと思っています。本を読むことがさらに楽しみになりました。

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教授 齊藤 眞理子

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by bwukokusai | 2012-10-23 13:26 | 教員コラム

尖閣諸島問題をきっかけに

 近頃「尖閣諸島の問題」が脚光を浴びています。これが他人事や地球の裏側の事でしたら、「そんな難しい事なんかワカンナ〜イ」と単純無知(不偏不党の善良な中立者のつもりで?)の傍観者を決め込んで、あっけらかんと静観していれば済むのかも知れませんが、今度ばかりはどうもそうは問屋が卸してくれそうもないのが「現実」というものです。
 この問題については、日本でまともな民主制を機能させて行くためにも、国民の一人として関心を持ち、よく知り良く考え、自分なりの見解や意見を持つことが必要です。
 中国と浅くはない関連を持ち、また関連科目の授業や講義を担当している者として、やはりここで幾つかのことを述べておくことは必要ではないかと思っています。           
 このブログの性格上、この尖閣諸島を巡る問題についての筆者の個人的な見解や判断を披露するのは相応しくないと思いますので(もし読者からの強い要望があれば、その時にまた態度を決めることにして)、ここでは少し焦点を外しながらも、気がついた幾つかのことを書いてみようと思います。

 中国での反日デモや暴動、暴行、破壊行為などなど、日本のマスコミは、中国の異常ともいえる反応に随分と驚かされると報道しています。多分、良識を持った日本人一般の目から見ても、その異常さに非常に大きな違和感を覚えるのは当然です。
 しかし、中国の事情を軸にして見ると、こういう風に故意に大騒ぎをするのは、全く“必要”なことであり、全く当然なことであり、むしろまだ相当に「自制しているのだ!」、と感じられます。
 つまり、日本側からは極めて「異常」、中国側からは「必要」「当然」。共通しているのは、双方とも“冷静”だ、という点です。ある種の“冷静”でもってあれだけの大騒ぎができるところに中国の中国たる特徴が出ていますが、その辺の構造や思惟方法が「なるほどね、そういうことなんだ」と判るようになれば、中国理解も相当に深まったと言えるでしょう。
 筆者の受け持つ中国・アジア関連の授業や講義では、その方向は一般に流布している通説や俗説を学問的批判(その基になっている資料や論理を再検証すること)を通して、より確実なものを求めようとすることにあります。ですから、単に結論や結果だけを知識として覚え、それを試験の答案用紙やレポート上に吐き出せば点数が取れるというものではありません。この学問的批判力がどの程度身についているかが評価の主対象です。中国やアジア(当然に日本を含めて)をより深く理解する能力を育てることが目標であり、日中“友好”などの政治的な目的のためのものではありません。教員として学生に願うことは、将来的には、知識を生かすこと以上に能力を生かすことに力を注いでほしい、ということです。

 さて、尖閣諸島の問題は、中国の諸事情から見れば、南シナ海での東南アジア諸国との間で紛争を起こしている問題の性質と同様に、既に海底石油・天然ガス資源問題や漁業・海洋資源レベルの問題を通り越して、中国にとっての“安全保障(=軍事的必要性)”の問題になっているようです。つまり、領土・領海的なことと公海上であっても勢力圏の問題になっているようです。
 なぜ? それは中国の事情によるものです。昔からあった中国の領土領海と勢力圏が、近代になって欧米や日本によって不当に奪い取られ、盗み取られており、国力が充実して来た現在、長年の懸案だったそれらの領土領海・勢力圏を取り戻すという至極当たり前の権利を行使するのだから、関係諸国は謙虚になって正義に目覚めるのが当然です、ということらしいです。
 関係諸国から見れば、それは中国の不当な対外拡張・膨張だ、ということになりますが....。
 
 これに関してちょっと思いついたことがあります。かなり荒っぽい表現になりますが、大筋を捉えるため、ということでご理解ください。
 歴史を振り返って見れば、イスラムの発展は真主(アッラー)の正義地上に実現するためのもので、真主は全世界の人々を正しき道に導く存在です。ですから、これには普遍的な全人類的なアッラーの正義の実現という大義名分があります。ヨーロッパ中世の十字軍は、もうじき最後の審判の日がやってくるという強迫観念を背景に、神の意志である地上の浄化(異教徒の撲滅と改宗)を目指すものです。神は全世界の人々を正しき道に導く存在です。ですから、これには全人類的な神の正義の実現という大義名分があります。かつての大英帝国の対外拡張は、“自由貿易”で世界中の物流を良くし、人々を豊かにする、という大義名分がありました。それは同時に近代科学技術を伴うものとなり、植民地化は同時に統治の文明開化をもたらすものであり、世界中の人々を文明化させる義務を履行するという大義名分がありました。共産主義の拡張は、真の自由と平等と各自の能力の無限の発展を保証することを通じて世界に永遠の平和をもたらすことを大義名分としました。ですから、これは全人類的な課題です。USAは、その特殊な建国の理念を背景に、全人類に自由と民主主義をもたらすことが使命であると自認し、それを大義名分として今日も日々努力をしています。かつての大日本帝国は、欧米列強によるアジアの植民地化に抵抗し、アジアはアジア人のものであるはずということから、全アジアの独立・自立と団結、近代化を大義名分に、大東亜共栄圏と言うアジア人共通の課題を掲げました。
 このように、いずれも大義名分が広範囲の人類の“幸福”を標榜しました。勿論、大義名分がすべてその言葉通りに実現された訳ではありませんが、少なくとも、全人類もしくは広範囲の人々の“幸福”に目を向けていたとはいえるでしょう。
 では、近年の中国の“対外伸張・拡張”は、どんな全人類的あるいは広範な人々の“幸福を”実現しようという大義名分を掲げているのでしょうか?
 上述したそれぞれの大義名分には、それなりに「自分と他人との幸福を同時に考える」と言う動機があり、それなりに“幸福とは何か”、人類にとっての“正義と義務とは何か”、という探求が伴っています。では、今日の中国では、どのような“幸福”と“正義”と“義務”とが探求されているのでしょうか。
 この機会に、読者の方々がこの問いに思索を巡らすことを期待します。

准教授 窪田 忍

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by bwukokusai | 2012-10-16 10:52 | 教員コラム

世間学と日本語

 明治になり近代化がなされ、私たち日本人は「社会」で暮らしているつもりになっているが、実は、日本には「世間」はあっても「社会」と言えるようなものはないのではないか。私たちは自らが日々を生きる「場」の実態に光を当てるべきである。
 そのような問題意識から設立されたのが以前にもご紹介した日本世間学会です。
(以前の拙紹介:http://bwukokusai.exblog.jp/13575548/)
そして、その学会の設立に強い影響を与えたのが、歴史学者の阿部謹也氏です。
 阿部氏が「世間」の特徴として指摘するものに、「贈与・互酬の関係」と「長幼の序」があります(その他に、「共通の時間意識」、「差別性・排他性」、「神秘性」なども指摘されている)。

 「贈与・互酬の関係」とは、お中元やお歳暮、香典やご祝儀に対するお返しなどの慣習に見てとれる、「お互い様・もちつもたれつ・もらったら必ず返す」の関係と言えます。いっぽう、「長幼の序」とは、年上か年下か先輩か後輩かがとても大切にされるということです。
 日本社会のあり方と「贈与・互酬の関係」や「長幼の序」を結びつけて理解することに疑問を感じる人もいるかもしれません。お中元やお歳暮の習慣も以前ほどではなくなってきているようですし、「長幼の序」も今ではなくなってきているのではないかと感じる人もいるでしょう。また、そのような性質が認められるとしても、それを特に「日本」と関係させて理解することに対して疑問を感じる人もいるでしょう。
 このような問題については、今後、比較社会学や文化人類学的研究が必要なのだと思われますが、ここでは、日本語論の観点から一言もの申してみたいと思います。

 日本語の中には、「贈与・互酬の関係」と深く関わるものとして注目すべき表現があります。「授受表現」です。
 英語なら「give」の一語で表現されるところが、日本語では、自分が相手に「与える」ときには「あげる」、いっぽう、相手が自分に「与える」ときには「くれる」と、「あげる」と「くれる」の使い分けがなされます。

 He 【gave】 it to me. (彼は私にそれを【くれた】。)
 I 【gave】 it to you. (私は彼にそれを【あげた】。)

 このような使い分けは、世界の言語の中で日本語以外には南アフリカのマサイ族の言語くらいにしか認められないと言われています(中国語や韓国語も英語と同様、自分が与え手であれ受け手であれ一つの動詞が使われます。中国語「給」、韓国語「주다(チュダ)」)。

 そして、「あげる・くれる」のもう一つ注目される特徴として、「良いこと」にしか使われないということが挙げられます。つまり、「損害を相手にあげる」という言い方は基本的にはできません。それに対し、英語の「give」、中国語の「給」、韓国語の「주다(チュダ)」などは「悪いこと」にも使われます。
 つまり、日本語の「あげる」と「くれる」の使い分けは、自分が恩恵の与え手側なのか受け手側なのかに日本人が強いこだわりを持つことの現われではないかと考えられます。

 さらに、授受益の補助動詞「~てあげる」「~てくれる」「~てもらう」の存在も特徴的です。
日本語では、「相手が自分に対して何かよいことをした」場合には、「~てくれる」か「~てもらう」をつけないことには自然な表現にはなりません。
 「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内した。」は変で、ふつうは「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内してくれた。」などと表現されます。
 そして、「~てくれる」「~てもらう」のような授受益の補助動詞を持つ言語もやはりかなり限られた言語だけなのです。
 この補助動詞の使われ方からも、日本人が贈り贈られること(つまり、「贈与」)に関して並々ならぬこだわりを持っていることが見えてくるように思うのです。

 スペースがなくなってきてしまいましたが、「長幼の序」については、日本語の大きな特徴とされる敬語の存在と符合することはすぐに気づかれることだと思います。さらに「共通の時間意識」等の、その他の特徴についても、日本語の側からその裏付けをすることが出来るように思っていますが、その話は、また別の機会に。

参照文献
Newman,John(1996)Give:A Cognitive Linguistic Study.Berlin:Mouton de Gruyter.
山田敏弘 (2004)『日本語のベネファクティブ ―「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法―』明治書院


追記 世間学と日本語をテーマとして、この秋の第28回日本世間学会研究大会で、「世間と日本語に通底するもの -主体性と第三者的視点の欠如-」と題して発表する予定です。

教授 加藤 薫

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by bwukokusai | 2012-10-10 06:50 | 教員コラム

愛を読むひと――「シネマ小平」から

 文化学園大学では、基礎教養の充実や職業意識の育成などをはかる目的で、原則として2月と9月にそれぞれ1週間程度ユニークな授業を行っています。具体的には、一つの科目を専門の異なる複数の教員が担当するものや、産業界あるいは地域との交流を基礎においた授業などが開講されています。集中講義のような形で行われるこの授業は、本学では「コラボレーション科目」(学生は「コラボ」と省略しているようですが)と呼ばれ、学部・学科・学年の枠を超え多くの学生が履修しています。
 今回はこの「コラボ」科目の一つである「シネマ小平」について書いてみようと思います。この授業は、英米文学、英語学、国際関係学といった分野を専門とする私を含めた5人の教員が担当し、映画を通じて人間のあり方をみつめ、映画の背景にある社会や歴史などの知識を深めようとするものです。今年は、「コンプレックス」を共通テーマに設定して、5人の教員がそれぞれ映画を選びました。
 私が今回担当した映画は、「愛を読むひと」(2008年)です。まず、ストーリーをざっと追っておきましょう。1958年の(西)ドイツ、15歳のマイケル(ドイツ語読みではミヒャエル)は、通学途中で気分が悪くなり年上の女性(ハンナ)に助けられます。マイケルは回復後この女性と逢瀬を重ねるようになるのですが、ハンナはマイケルに本の朗読をさせるのです。彼は、ハンナのために『オデュッセイア』、『犬を連れた奥さん』、『チャタレー夫人の恋人』などの作品を、戸惑いつつも心をこめて読み続けます。でもこのような状況は突然幕切れを迎えます。ハンナが姿を消したためです。8年後、マイケルはハイデルベルク大学の法科学生としてナチス戦犯の裁判を傍聴するのですが、その時に被告席にいるハンナの姿を見つけるのです。
 映画の後半は裁判シーンを中心にストーリーが展開しますが、ここで初めて、ハンナが文盲であるという事実にマイケルが気付きます。ハンナがなぜ文盲のまま生きてきたかを具体的に説明するシーンはありません。ただ、全てを犠牲にしても隠し通そうとするほどの強いコンプレックスが彼女の半生を支配していたことが淡々と表現されています。このようなハンナを演じるケイト・ウィンスレットの人間描写の何と深いこと!
 この映画のもう一つのテーマは、ドイツが自らの戦争犯罪をどのように裁いてきたかという問題と関連しています。勝者である連合国がナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いた裁判は「ニュルンベルク裁判」と呼ばれていますが、この国際軍事法廷での裁判とは別に、(西)ドイツでは1950年代からナチス関係者を自国の法基準で裁いてきました。1979年にはナチス犯罪の時効が廃止され、永久に追及することが決まりました。戦時中、強制収容所の看守をしていたハンナが、1960年代になって大量虐殺への関与を問われたのはこのような事情によるものです。徹底的にナチス関係者を追及するドイツの姿勢は、正面から戦争責任に向き合うものとして評価されることが多いのですが、問題点がないわけではありません。たとえば、戦争犯罪の軽重を無視してナチス関係者を無差別につるしあげ、彼らに戦争責任のすべてを帰してしまうことにより、国家としてのドイツの犯罪を免責する結果を生んでしまうのではないかと指摘する声もあります。裁判官から、ガス室に送り込むユダヤ人を「選抜」した状況を厳しく問い詰められたハンナが、「あなたならどうしましたか?」と問い直すシーンは圧倒的な迫力をもっていました。明らかにスケープゴートにされたハンナと、彼女の問いに答えることなく無期懲役の有罪判決を言い渡す裁判官とのコントラストが見事に映し出されています。この映画には、「年の差カップルのラブストーリー」以上の見所がありますよ。

教授 中沢 志保

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by bwukokusai | 2012-10-02 10:47 | 教員コラム