文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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八ヶ岳美術館見学記―彫刻家、清水多嘉示に魅せられて―

 所要のため8月22日から24日まで長野県茅野市へいってきました。新宿を発つときは気温34度でしたが、茅野駅舎の温度計は21度を示し、心地よい涼風が旅の疲れを一掃してくれるような気分になりました。
 さて、長野県には美術館、博物館がどれくらい存在すると思いますか。ざっと数えてみると40館以上あるのです。47都道府県中、1位は東京都、2位が長野県です。なぜ長野県には美術館・博物館が多いのか。私の推測ですが、長野県は昔から「教育県」といわれるほど教育や文化に対して県民意識が高いこと。著名な文化人を輩出していること。そして県内には多くの工房があり、その結果、芸術家の作品を展示すべく美術館が誕生したこと、等があげられると思います。

八ヶ岳美術館
 以前から気にかけながらなかなか出かけられなかった原村立八ヶ岳美術館を今回、見学する機会が得られました。村立という管理形態も珍しいのですが、現在は原村が設立した財団法人原村振興公社が指定管理者となって運営されています。茅野駅からバスで40分、タクシーで20分でいけます。八ヶ岳連峰にいだかれて標高1,350mの高原にあって、カラマツ林と雄大な自然環境の中にユニークな建物が目に入ってきます。著名な建築家、村野藤吾(1891~1984文化勲章受賞者)が設計にあたりました。屋根が半円形で食パンをつなぎ合わせたような白色の概観で、来訪者がおのずと招き入れられるように工夫されています。館内にはいって驚がくしたことは、高い天井から白いレースのカーテンが絞り吊りされていることで、豪邸のラウンジにでもいるような錯覚にとらわれます。しかし、やわらかな光の効果で展示物が一層目立つのです。
 この美術館は、「原村立八ヶ岳美術館・原歴史民俗資料館」として1980年に開館しました。「民俗資料館」と、並列して命名してあるのは、原村の各所から主に縄文時代の土器や石器が多数発掘され、これを修復して常設展示しているためです。縄文前期の阿久(あきゅう)遺跡は1979年に国の史跡に指定され、同遺跡の土器も展示されています。

彫刻家・画家、清水多嘉示
 この美術館が設立される契機となったのは、地元、原村出身の彫刻家、また画家でもある清水多嘉示(しみず たかし1897~1981)が生前、自ら作品を原村へ寄贈したからです。1897年7月27日、諏訪郡原村に生まれ、1915年諏訪中学校を中退後、独学で絵画を学び、若くして画才を発揮します。諏訪や岡谷の高校で美術の教師を勤めながら作品を次々と発表し、二科展入選をくりかえし、画家として身を立てる自信を深めていきます。1923年から1928年までフランスへ留学し、アカデミー・コラロッシに入学、シャルル・ゲランの教室で絵画の習作に励みます。ところがアントワーヌ・ブールデルの彫像に深い感銘を受け、ブールデルの晩年(1929)に彫刻の指導を受けることになるのです。
 帰国後、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)で教鞭をとりながら、生命感にあふれるブロンズ彫刻を制作、高い評価を受けます。1939年、多嘉示は「海軍従軍彫塑家」として上海から中国本土に入ります。ここで「千人針記念碑」にかかわることとなります。多嘉示はこの作品群の一部「出征兵士ヲ送ル」を従軍中の体験をもとに多嘉示本人の発願で構想されたものです。この彫刻は、出征する父親に手を振って送る幼児を、わが子が倒れないように母親が右手で背中を支えている姿を表現したものです。現在、「母子」という題名で展示されていますが、多数の展示作品の中で私が最も感動した彫像です。
 戦後は武蔵野美術大学教授に復帰し、日展審査員、1953年「すこやか」で芸術選奨文部大臣賞、翌年「青年像」で日本芸術院賞を受賞。1965年日本芸術院会員、日展理事、1969年勲三等端宝章受賞、1980年には文化功労者。八ヶ岳美術館が開館した翌年、1981年5月5日、84年の生涯を閉じました。

企画展について
 八ヶ岳美術館では、常設展示の他に毎年数回、企画展を開催しています。現在、廃材アーテイスト、高橋耕也氏の「からくりオブジェ展が9月30日(会期中無休)まで開催されています。展示室に一歩、足を踏み入れるとセンサーが稼動して廃材で制作した巨大な骨だけの魚や時計等々が一斉に動き出し、不思議なワンダーランドへ変身します。大人ばかりでなく子どもも楽しめる企画展です。
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 八ヶ岳高原のふもとに広がる原村は、実に魅力に富んだ村です。都会からの移住者が年間約50人ずつ増加している人気の移住スポットだそうです。詳細は原村ホームページにアクセスしてみてください。

<参考文献>
① 早坂義征著 太陽への道 評伝・彫刻家清水多嘉示の生涯 長野日報社 2007
② 生誕110年記念 エコール・ド・パリ 清水多嘉示の絵画・彫刻展 2007
③ 松隈洋著 八ヶ岳美術館 1979―自在な合理主義の結晶― 京都工芸繊維大学美術工芸資料館・村野藤吾の設計研究会刊 第9回 村野藤吾建築設計図展カタログ(2007年) p.80~81 より転載リーフレット 

教授 宍戸 寛

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by bwukokusai | 2012-08-29 14:59 | 教員コラム

北国の夏

 ♪しらかば~ あおぞぉら みぃな~みぃか~ぜ~♪ 北国は春ではなく、夏真っ盛りなので丘にはコブシではなく向日葵が咲き乱れている。
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 夏休みは、毎年、二週間ほどを北海道に帰省して過ごしている。北海道で生まれ育った自分にとって東京の酷暑からの「避暑」というより「避難」に近い感覚で、夏休みが近づくと「早く帰省したい、北海道に帰りたい」という気持ちに駆られる。夏休みに入るや否や飛行機に飛び乗ってやってきた北海道での生活の拠点は、妻の実家のある室蘭だ。出身は札幌で両親も住んでいるので、数日は札幌でも過ごすが、社会人としてのキャリアをスタートした室蘭のほうが愛着があって居心地がよい。

 室蘭は、鉄鋼業で栄えた鉄の街だ。最近、産業観光が「新しい観光」の1つとして注目されて、工場萌え(工場の景観を愛好すること)なるものが秘かなブームとなっている。さらに工場夜景も観光資源化がはかられ、全国で工場夜景ツアーが開催されるようになってきた。室蘭の工場夜景もなかなか素晴らしい。川崎、四日市、北九州と並んで日本四大工場夜景として売り出し中だ。
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 室蘭には工場だけでなく、関東以北最長のつり橋である白鳥大橋もあり、これが夜景をいっそう引き立てている。上の写真は、筆者が撮影したものだが素人が夜景を撮るのは難しい。室蘭夜景というサイトには美しい写真がたくさん掲載されいるので是非のぞいてほしい。
室蘭夜景 http://www.muro-kanko.com/yakei/ )

 室蘭だけでなく、北海道には魅力的な観光地があるので、極力暇を見つけては出かける。下の写真は、ニセコへ向かう道すがら立ち寄ったダチョウ牧場と、ニセコで食べたハンバーガー。ちょっと出かけると面白いもの、おいしいものに出会える観光ワンダーランドである(と思っている)。
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 家でもおいしいものを。晴れた日には、連日のごとく庭に出てバーベキューやジンギスカンにいそしむ。今年のヒットは、溶岩プレートで焼く自家製ピザ。新鮮な野菜をたっぷりのせてカリカリに焼きあがったピザは絶品だった。
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 どっぷりとレジャーを満喫するのも、あっという間に過ぎ去ってしまう短い夏を堪能しつくしたいからだ。お盆を過ぎてこのブログが掲載される頃には、空は高くなり秋風が吹きはじめる頃だろう。残暑という言葉の意味を東京に出てはじめて理解した。残暑の東京に帰る日が近づくのがつらい。

                                                   助教 栗山 丈弘

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by bwukokusai | 2012-08-21 08:00 | 教員コラム

アウシュヴィッツ ― Ⅱ ―

                              一

 
 12時の時を告げたビルケナウのこの教会は、アウシュヴィッツ収容所長であるルードルフ・ヘスが指揮を執った場所である。そこはアウシュヴィッツ・ビルケナウ・モノヴィッツ基幹収容所と40以上あった副収容所すべてを統括した司令部であった。彼は冷酷無比な狂人ではない。教養も洞察力もあり、「潔癖さ・正義感」さえも備えた、また、家族に対する愛情も豊かな父であり夫であった。ガス室に押し込まれドアが閉められる瞬間、自分の子供たちを部屋から押し出そうとする母親の叫び声を彼は記録に残している。「せめて、せめて、子供たちだけは、生かしてやって!」。彼は与えられた任務には実に忠実であり、それを果たしてゆく決断力もある人間であった。つまり、どこにでもいる類の「普通」の人間なのである。彼は彼なりに「人間らしい感情」を持ち、「心を引き裂かれるような思い」をし、「心の底の焼けるような苦痛」に耐えながらも、祖国の未来のために励まなければならない、と思っていたのである。
 では、どうして彼は歴史の中で類を見ないほどの大量殺戮を犯したのであろうか。それは権威への盲従であり、自らの信念というものに対する批判の欠如である。彼の同僚であり、しばしば彼の手記にも登場するルドルフ・アイヒマンにおいても同様である。アイヒマンは、数百万人のユダヤ人を各地の強制収容所へ移送する任務で中心的役割を担った人間である。ヘスはアイヒマンとは「ユダヤ人問題の最終的解決」については何度も突っ込んで話し合う間柄であったようだ。アイヒマンの名前は、人間の権威服従受容度(かつて「北朝鮮度」とマスコミで言われたこともあった)を明らかにするために行われたかのミルグラム実験の別称として使われた。しかし、それは適切ではないであろう。ヘスは、かの「最終的解決」についてアイヒマンの本心を聞き出そうとあらゆる手を尽くした、と述べている。「しかし、滅茶苦茶に酔っぱらった時でも―もちろん、我々二人だけで―アイヒマンはまるで憑かれたように、手の届く限りのユダヤ人を一人残らず抹殺せよ、とまくし立てるのだった。仮借なく、氷のような冷酷さで、できるだけ早くこの虐殺を遂行しなければならぬ」(片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』)。そのようなアイヒマンのナチスの理想に対する忠実さを前にして、ヘスは自分の「人間的な優しさ」を「障害」のように思った、ということである。アイヒマンがあれほど熱烈に語ったのは、ヘスが感じていたものと同様の人間としての自分の苦悩を打ち殺し、自分を納得させるため、という側面もあったであろう。それほど彼は「ナチスの大物」逃亡者ではなく、どこにでもいるような「俗物」役人なのである。このような分析のゆえに、ハンナ・アーレントは同胞ユダヤ人から激しく非難されたのであった。アイヒマンは、1961年エルサレムでの裁判において彼が弁明したような、「命令に従っただけ」ではないのだ。彼は自ら信じようとし、信じ、確信を持って自らの使命を、自らの任務を遂行したのである。およそ「不屈の信念」ほど危なっかしいものはないのではないのか。権威への依存による正義で保身を図ろうとする「大樹の陰」意識。権威は途方もない力とともに押し迫って来、心の奥深くに受肉する。また同時に、人間の根底にある奴隷意識は大樹にすり寄り、権威が受肉することを願い、刷り込まれることを願っているのだ。

                              二

 1980年代後半、ドイツで分野を異にする多くの知識人によって「歴史家論争」がなされた。アウシュヴィッツを生み出したメンタリティーを普遍化することは、ナチスの犯罪を多少なりとも相対化・平板化するものとして、激しい批判を浴びた。しかし、私たちは誰でもがヘスであり、アイヒマンであるのではないのか。組織的大量殺戮アウシュヴィッツは、古代の辺境の蛮族によってなされたものではない。それは今のこの時代に直接接続する、たった70年前、理性の深い伝統を持つドイツでなされたものである。歴史は良い方向に進化しており、かのような悲惨は今後生じることはあるまい、などと思うとしたら、それは夢想である。宮田光雄氏の言う如く「アウシュヴィッツで生じたことは今後の世界において起こりえないという保証はない」。今、どこにでもますます大規模に大量殺戮が生じる可能性が高まっているのではないのか。アウシュヴィッツという悲惨は、アウシュヴィッツを繰り返さないことによってのみ意味を持つのである。
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 凡俗なアイヒマンにしても、生真面目で、ある種の「正義感」さえ持ち合わせているヘスにしても全く凡庸な人間である。アーレントの言う如く、このよう平凡(バナール)な大衆によって組織的巨大悪が遂行された。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)。現代は、人間の良心や理性、その成果である文化・文明といったものがもはや信頼できない時代である。

教授  木村 清次

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by bwukokusai | 2012-08-14 10:00 | 教員コラム

アウシュヴィッツ ― Ⅰ ―

 
                             一

 およそ40度はあろうかと思われる灼熱の太陽に焼かれながら、「これがナチズムか、人間の憎悪はここまで行き着くものなのか」、と思った。この場に立って実感できる歴史というものがある。
 ずっと先の林に続く道には日差しを遮るものは全くない。左側には見渡す限りの草原(くさはら)。そして、一見何かと思える赤レンガ造りの朽ち果てた、しかしなお崩れてなるものかとそそり立つ煙突。無数に林立する。先ほど内部を見た男性用棟がおよそ20棟程彼方に見える。そのさらに向こうには当時SS(ナチス親衛隊)中央衛兵所として使われ、現在はここの入場門となっている通称「死の門」が見える。この門は映画『シンドラーのリスト』にもたびたび映し出される例の門である。鉄道の引き込み線がその門を通り、この収容所の中深くずっと入り込み、右側はるかかなたに見える今も破壊された当時のままに放置されているクレマトリウム(ガス室付死体焼却炉)まで伸びている。一昨日私はすでに一度ここを訪れている。ここは、アウシュヴィッツⅡと当時呼ばれた「ビルケナウ収容所」、まさに「絶滅収容所」である。アウシュヴィッツの3キロ西ブジェジンカ村に、この収容所は「ユダヤ人問題の最終的解決」のために建設された。当時沼地であったこの村はずれの地から数軒の村人を退去させ、日々数千人単位で移送されてくるユダヤ人・政治犯・ロマ・障害者等を「処分」するために、アウシュヴィッツの7倍の広さの収容所が建設されたのであった。
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 ここではおよそ20棟から40棟ほどのバラックが1区域とされ、隔離するために2重の有刺鉄線が張り巡らされていた。その380ボルトの高圧電流が当時流れていた鉄条網は、それを支える柱とともに今は所々破れ途切れしてはいるが、なおしぶとく各区域を分断し、延々と続いている。20棟ほどの内部が公開されている木造バラックが「死の門」の手前に立っている。それ以外の棟が土台と暖炉の細長い煙突のみを残し、跡形もなく崩壊していることから、それらの棟が再建されたものであることがわかる。当時そこはBⅡ区域aと呼ばれたバラック群である。先ほどその内部を見た。まさに家畜小屋である。
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 夏場は今日のように40度はあるのではないかと思われる灼熱の太陽の下で、冬はマイナス20度にもなる東ヨーロッパ内陸の極寒の中で、死の恐怖と飢えに耐え、収容者たちは強制労働に服したのである。木造バラックの下部、土台との間にある隙間からは容赦なく真冬の寒風が吹きこみ、多くの収容者を凍死させた。藁を敷いただけの木造の3段ベッドは人間の眠る所としてはあまりに悲しく惨め(みじめ)だ。トイレ棟は20棟当たり1棟が別棟として割り当てられている。棟の端から端まで続くコンクリート台に2列の丸穴が開けられているだけのトイレである。

                              二

 20棟のバラックを左に見ながらBⅢ区域との間の大路を奥へと進む。はるか前方左の林の中に、焼却した収容者の灰を投げ入れた池があるはずであるが、ここからまだ見えない。その池の道を挟んだ向かい側には死者たちを野焼きにしたという場所があるはずである。そこはあの林の向こうであろう。スペイン人の男女とすれちがった。目が合い会釈をした。彼らも沈痛な面持ちである。右側には当時BⅢ区域と呼ばれた広大な空地が広がっている。ヨーロッパ各地から日々送られてくるユダヤ人を収容するための施設を拡張すべく計画が立てられたのであるが、結局敗戦に至りそれは実現しなかった。その場所が空地としてそのまま残っているのである。そのうえ、BⅢ区域と同じ広さのBⅣ区域がさらに隣接地に計画されていたようである。BⅡ区域とほぼ同じ面積のBⅢ区域にはバラックも、暖炉の残骸も一切ない。ただ夏草の生い茂る原野である。その向こうには普通の民家が数軒見える。
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 突然背後から鐘楼の音がした。正午の時を告げる教会の鐘である。今日は8月15日、日本敗戦の日だ。ここポーランドと日本とは時差7時間であるから、かの戦争の犠牲者に対する黙祷は日本ではすでに終っているであろう。その教会はかつて司令部として使われていた建物である。先ほど訪れ、見た限りでは、それほど古い建造物には思えなかった。修復して教会にしたものであろう。すでに一昨日私はこのビルケナウを訪れている。ポーランドの古都クラコフからバスで1時間半。ドイツ思想の研究者としてアウシュヴィッツを必ず訪れなければならない、とかねて思っていた。3日前早朝ウィーンを発ち、7時間かけクラコフに入った。ホテルに荷物を置き、すぐにユダヤ人街を訪れた。クラコフのユダヤ人街カジミエーシュ地区は、かつてヨーロッパ最大級のユダヤ人街といわれ、『シンドラーのリスト』の舞台にもなった。当時のゲットーを外部から隔てる壁は完全に取り払われており、ホテルとレストランに囲まれ中央市場広場は、夕刻ヴァイオリンの音色と歌声にあふれ、酔客で賑っていた。またこの街の子供か、訪問者の子供かよくわからないが、夕闇の中彼らはそこかしこで戯れていた。俗物シンドラーが一転ユダヤ人の救済に命を懸けるようになったきっかけは赤い服を着た少女の死であった。
 一昨日アウシュヴィッツで見た、犠牲になった子供たちの山積みされた靴・衣服・玩具が思い出される。それらを購入するに際しては、母親と子供たちとの間で今と変わることのないたあいない、しかし優しさに溢れた様々な日常的なやり取りがあったことであろう。小さな靴やスカートはそれ独自のかけがえのない歴史を持ち、また同時に実現しなかった多くの願いを想起させる。初期には送致された収容者全員の顔写真が撮影された。壁一面に張られたそれらの中には、不安な面持ちの幼気(いたいけ)な子供たちを写したものが数多くあった。
 10号棟を陰鬱な気持ちで出ると、その出口の階段に、4人の年配のドイツ人が茫然として立っていた。10号棟は「死のブロック」と呼ばれた11号棟の手前にある。1人の夫人が声を立てて泣いており、その傍らで彼女の夫らしき男性が肩に手を置き、彼女を慰めていた。10号棟は囚人を使った人体実験棟である。当時、生体を使用しての様々な人体実験手術がこの棟内で頻繁に行われ、その際に使用されたベッドや手術道具、写真等が公開されていたのであった。この4人のドイツ人はそれらを見た後なのであろう。70歳は超えているであろう恰幅の良い善良そうなその夫人は、「どうしてドイツ人はこんな酷いことをしたの。どうしてこんな酷いことができたの」と言いながら、目にハンカチを当てていた。愛する自分の祖国を誇りたくても誇ることを決して許さない罪、どうにも弁解の余地のない罪を突き付けられたのである。
 私たちは自民族の過去から多くの遺産を相続している。「人は自分の罪のゆえに死ぬ。誰でも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」と、エレミアは個の責任を明確にした。そこに、倫理的に言うならば、いかなるものにも依存しない独立した良心を見ることができよう。しかし、同時に「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」事実も間違いなく存在する。罪の必然的結果である罰が世代を超えて伝達するのである。子孫は自らが「犯した」のではない、従って、自分の「責任」ではない罪悪のつけを支払わされることになろう、まるで今日の日本の年金制度の如く。
 私たちは過去と未来の一切の責任を負い、時間を越え、今ここに立っている。私たちは生まれる前の祖先の罪について謝罪すべきだろうか、という問いに対し、「謝罪すべきである」、と答えよう。1985年ヴァイツゼッカードイツ大統領終戦40周年記念演説「荒れ野の40年」以降、よく若者が「父祖たちの罪悪は私が犯したものではありませんから、私には罪はありません。しかし、これから生きる人間として、未来には責任があります」と言う。「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なもの」という大統領の見解に依拠したものであろう。果たして本当にそうなのか。自分の「自由」に基づくものではない過去に、倫理の立場からは一切責任はない、と言えよう。しかし、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております」とするならば、それは罪悪の集団性をも認めたことになろう。

教授 木村 清次

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by bwukokusai | 2012-08-07 13:09 | 教員コラム