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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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ビンラディン殺害のニュース

最近の海外ニュースのなかで特に気になるものはありますか? 私にとっての重大ニュースは、5月の初めに伝えられたオサマ・ビンラディン容疑者の殺害に関するものです。皆さんもご存じだと思いますが、ビンラディンは、2001年9月11日の同時多発テロの首謀者とされていた人物で、アメリカが5000万ドル(約40億円)の懸賞金まで懸けて10年近くその行方を追っていた容疑者です。

無差別殺人をも正当化するテロリストは断じて許せないという心情は分かりにくいものではありませんが、今回の米軍によるビンラディンの殺害という行為には違和感を覚える人も少なくないでしょう。同容疑者の死亡発表に「狂喜」するアメリカ国民の姿が映像で流れると、このような違和感はさらに大きくなるような気がします。「仮に極悪非道の罪人であったとしても、裁判なしにアメリカの判断だけで処刑してもいいのだろうか?」というような基本的な疑問も湧いてきます。

現在の国際社会においては、全ての国を一律に拘束する法律も裁判所もありません。史上最大の国際機関である国際連合でさえ、各加盟国の主権に立ち入ることは至難の業です。紛争地への国連平和維持部隊の派遣も、紛争当事者の合意なしに実施されることはほとんどありません。綿密な法律網が細部にまで行き渡る国内の状況と違い、国際社会はどちらかというと、無法状態に近いと言った方がいいかもしれませんね。ですから、今回の米軍の行動が、容疑者を逮捕する警察官ではなく、ならず者を撃ち殺す保安官のようにみえるとしても不思議ではないでしょう。このように、国際社会での秩序づくりはまだまだ未発達の段階にありますので、米軍のビンラディン殺害という行為に関して、たとえばその違法性を証明するといったことは大変難しいと思います。

でも、そうだからといって特定の国の判断をそのまま国際基準にしても良いのでしょうか? アメリカに限らず、国際社会で大きな影響力を持つ国々は、往々にして「正義」の名のもとに「強者の論理」をふりかざし、そのことが逆に大きな対立を呼び込んではいないでしょうか? 「文明の衝突」という言葉を使って冷戦後の国際関係の危うさを指摘したサミュエル・ハンティントンというアメリカの国際政治学者が、1999年に「孤独な超大国」という論文*の中で、「アメリカは、人権、麻薬、テロリズム、核拡散といった点を基準に各国をランク付けし、こうした問題について自国の基準をみたさない国々に制裁措置をとり、・・・定期的にさまざまな国家を『無法者』呼ばわりするが、多くの国々にとって、いまやアメリカの方が『無法者の超大国』になりつつある」と警鐘を鳴らしていました。彼の確かな洞察力には驚かされますが、同時に、一番鋭いアメリカ批判がアメリカ人自身から出てくるという点では、少しほっとする思いもあります。

* この論文の原題は、The Lonely Superpower となっています。アメリカの外交専門誌 Foreign Affairs 1999年3,4月号に掲載されたものです。なお、この論文を含むハンティントンの複数の論文の翻訳は、『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社、2000年)で読むことができます。


                                                       教授 中沢 志保
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by bwukokusai | 2011-05-31 16:34 | 教員コラム

地球人として生きる

今最も旬な作品『テルマエ・ロマエ』、もう読みましたか?タオルや桶を持ったギリシャ彫像が表紙となり、書店に平積みされている漫画のことです。これは、2010年3月にマンガ大賞を、4月には第14回手塚治虫文化賞「短編賞」を受賞し、今春第3巻が発売され、シリーズ累計250万部突破(5月8日付朝日新聞朝刊)する勢いとなっています。

古代ローマ時代の浴場技師ルシウスが現代日本の様々な風呂施設にタイムスリップし、風呂にまつわる進んだ品々にローマ人としてのプライドを傷つけられながらも、それをヒントにしてローマの風呂改革に取り組んでいくというストーリーなのですが、体裁や見栄を気にせず、真摯に自分の仕事に取り組んでいく生真面目な姿に気持ち良く笑えるのです。

作品自体とても面白く、一読の価値があるとお薦めしますが、より興味をひかれるのは著者の経歴です。著者のヤマザキマリさんは、14歳の時に一人で1か月ヨーロッパ旅行をした経験を持つ方です。自伝的漫画『涼子さんの言うことには』に描かれている旅の一場面では、「君のような幼い少女をたった一人でヨーロッパによこすとは君のママはずいぶんクレージーだな」と言う男性に対し、「ママはクレージーじゃない、ママは私をすごく信じてる!」と反論し、「私は彼女のお母さんは素晴らしいと思いますけど…」「あなたのママ、とってもスペシャルね」と彼女の母親を援護する女性を描いています。

「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、外国に知り合いがいるといっても、中学2年生の子を一人で旅に出すのはなかなかできることではありません。また、それを敢行した著者も新しいことにチャレンジする勇気を持った少女だったということです。

著者自身、このヨーロッパ旅行が17歳でのイタリア留学、ご主人との出会い、そして『テルマエ・ロマエ』を描くことにつながるものであったと回想し、「激動の昭和期を更に経験豊富に生きてきた母の直観的子育ては散々周りからの非難を浴びつつも、今となれば本当にありがたく正しいことだったのだなとしみじみ痛感いたします」と記しています。

そのお母様のもとで、今いる場所とは違う場所に対する好奇心や憧れが育まれた著者の幼いころの夢は「絵をかいて、旅をする人」だったそうです。現在は古代ローマを研究しているご主人(14歳年下のイタリア人!)と息子さんと3人でシカゴに住んでいるそうですが、これまでに30か国以上の国を訪れ、暮らした国もシリア・イタリア・ポルトガル・キューバなど数多く、夢は現実のものとなっています。そして、ヤマザキさんの作品には人との触れ合いを楽しみ、異文化を面白がる姿勢が色濃く見られます。

「私はやはり日本人でもあるけれど、それ以前に地球に住まう人間という意識を持っているので、違う時代や違う場所に対するボーダーラインは自分の中にはなく、今後もそのようにラインのない目線で作品を生み出していくことになると思います。視野を狭めず、多元性を糧に人としての資質を成熟させたい方になら、多分そんな作品も受け入れてもらえるのではないでしょうか。」とインタビューで語っていらっしゃいます。

第3巻では、主人公ルシウスが日本の建築技師にローマ風呂についてジェスチャーや絵で助言を与え、その過程で互いに現在取り組んでいる風呂について新たなヒントを獲得するというエピソードがあります。自分と異なる文化背景を持つ人との交流から様々な気付きを得、互いに成長していくことは国際文化学科の私たちが志向していることではないでしょうか。

さて、件の『テルマエ・ロマエ』、阿部寛主演でイタリア・日本での実写映画化が決定しています。TVドラマ『ROME』の為に作られた、ローマのチネチッタにあるセットで撮影も順調に進んでいるということです。今から楽しみです。
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参考:
ヤマザキマリ 『テルマエ・ロマエ』Ⅰ~Ⅲ、『涼子さんの言うことには』、『地球の果てでも漫画描き①キューバ編』など。
PAPYRUS 31号 2010年8月pp232-235
文芸春秋2010年9月号 pp83-85
ブログhttp://moretsu.exblog.jp/ 『ヤマザキマリ・シカゴで漫画描き』

                                                      教授 齊藤 眞理子

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by bwukokusai | 2011-05-24 16:41 | 教員コラム

自分への問いかけ、そして時代を超えてきた人々との対話

 人というものは一種奇妙な特徴を持っているようで、十代を過ぎる頃から、ふとした拍子に、自分が今やっていることにはどんな意味があるのだろう、この世の中に自分が生きているのには、いったいどんな意味があるのだろう、クラスメイトや友人や親友たち、学校の先生たち、祖父母や親や兄弟姉妹たち、親戚の人たち、隣近所の人々は、私という人間を本当に理解してくれているのだろうか、そして自分はその人たちのことを本当にわかっているのだろうか、などと思うことが始まる。
 このような問いは、普通はあまり大っぴらにされることは無く、大抵は自分の心の中で自問自答されるものだ。とは言っても、それらの答えは、はっきりとした輪郭をもつようなものにはならず、中途半端なものになりがちである。そして程なくして、日々の生活や行事に追われるようにして、問いそのものも意識の表面からいつの間にか心の奥底に沈んで行く。
 このような不定期の繰り返しを重ねているうちに、歳月は流れ、齢は重なって行く。ある時に得たと思われていた答えは、次の時にはもう不十分なものであるように感じることがあるし、もう一度最初に戻って考え直そうと思うようになることもある。
 もし自分自身に誠実に向かい合い、自分の人生を少しでも誠意に満ちたものにして行きたいと思う気があるのなら、このような自分自身への問いには、少々面倒ではあっても、ちゃんと向き合うことができるだろう。
 ことし18歳を過ごしている人は、生まれて初めて18歳を過ごしているのであり、20歳の人も、30歳の人も、50歳の人も、70歳の人も、それぞれ生まれて初めての年齢を過ごしているのだから、それなりに他の人には言いにくい、漠然とした不確かな感覚を心の中に秘めているものだ。昔の人々も、二千年前の人々も、五百年前の人々も、百年前の人々も、皆そのようであったのだ。
 古典と呼ばれる、遠い昔から読み継がれた文学や哲学や宗教や歴史の書物がある。もちろん読み継がれて来たのにはわけがあり、各時代の人々が時代を超えて共感し、感銘を受け、心を拡げ、感性を豊かにすることができたので、是非それらを次の世代に伝えていこうとしたからである。
 古典に接し、筆者の思いや思索に触れ、そして筆者と自分との時代を超えた対話がなされる時、心の奥行きと思慮の深さとがもたらされる。単なる知識の獲得としてではなく、自身の内面を繊細かつ強靭なものとしていく上においても。

                                                       准教授 窪田 忍

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by bwukokusai | 2011-05-17 19:34 | 教員コラム

日本語とPTA -「主体性と公共性」の希薄さをめぐって―

 「お母さん、今日の晩ごはん何?」
 「だから、カレーよ。今朝、言ったでしょ。」

 こういった「だから」の使われ方に興味を覚え、学生時代から日本語の文法について考えている。「だから」のように、本来、因果的関係を表す接続詞が間投詞的に使われることは、欧米の言語はもとより、中国語やタイ語やモンゴル語にもないようである(韓国語にはある)。
 なぜ、日本語にはこのような用法があるのか? ずっと考えてきた。

 子どもが中学に入る時、母親の代わりに学校に出向くことになった。PTAの問題で家内が学校に行きづらくなってしまったためだ。学校に出向いているうちに、PTAには非常に大きな問題があることに気づかされた。本来任意加入であるはずなのに、実態としては、自動的・反強制的に会員にされ、さらにとても負担の重い役職を押し付けられるのだ。診断書を提出し重病であることを証明するか代役を見つけてこない限り、役職が「免除」されることはない。私が現役のPTA役員だったたった2年の間にも、一緒に仕事をした複数のお母さんが、PTAがらみで体調を崩している。
 PTAの「本家」アメリカにおいては、PTAはその法的な位置づけのとおり、任意加入である。組織率は3割程度と聞く。組織率が限りなく100パーセントに近い日本とは大違いだ。中国や台湾や韓国やタイの留学生にも聞いたところ、日本のような強制的で息苦しい組織はないようである。
 なぜ、日本社会には、このような組織が存在するのか? これが、ここ数年間ずっと気になっているテーマである。
 今のところの一応の結論は、日本社会は、「仲間内の団結」を大切にするあまり、個人の権利と社会的なルール(法律)をないがしろにしてしまうところがあり、そのことと、PTA問題は関係があるのではないかというものだ。

 ここで話は日本語に戻るが、日本社会において個人の権利(主体性)が軽く扱われがちなことと、人称詞の用法、尊敬語と謙譲語の成り立ち、自発表現の存在等に見てとれる「『主体』というものの存在感の希薄さ」とは無関係ではないように思われる。(この点については、前回担当のコラム<「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論 ― 主体=「創造主」不在の文化 ―>で触れた。http://bwukokusai.exblog.jp/11751237/)
 いっぽう、社会的なルールが軽く扱われがちな点に関しては、主語・目的語の頻繁な省略、「だから」の間投詞的な用法等に見てとれる「公共性の希薄さ」、すなわち、客観的・第三者的な表現内容の成立には無頓着で、内々の相手に伝わりさえすればそれでよしとする傾向が関わっているのではないかと考えている。

 なお、PTAの現役役員の時に非力ながらPTAの改革を試みた。その時の様子が川端裕人氏の『PTA再活用論 ―悩ましき現実を超えて』(中公新書ラクレ)に紹介されている。また、上記書籍のもとになっている『婦人公論』連載時の記事は、http://minnanopta.seesaa.net/article/83898731.htmlで読める。

                                                      准教授 加藤 薫
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by bwukokusai | 2011-05-10 02:33 | 教員コラム

What are You Thinking?

   Recently, I had a conversation with two colleagues. The three of us are older adults. We talked about the following question: How has society improved during our lifetimes? We agreed that maybe the most important improvement is in human rights. Perhaps it is fair to say the percent of people alive today who have basic human rights—de jure and de facto—is the largest percent in recorded human history.
   If you are looking at this website, it is likely you are a young adult and you are thinking about yourself and higher education—undergraduate and/or graduate.
   How will society improve during your lifetime?
   What role do you hope to play in that improvement?
   How can higher education prepare you to play that role?

                                                 教授 チェスター・プロシャン

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by bwukokusai | 2011-05-02 18:48 | 教員コラム