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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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歳の暮れ、年の始め

 年の瀬である。賑やかにしなればいけないという“空気”が漂っている。
 新年・正月が昇り来る朝日のイメージならば、師走はまさに沈み行く夕日である。弥生と卯月の際、年度末にはこうしたイメージは涌(わ)かない。

 西欧流の聖誕節(クリスマス)の根底には、太古からの「冬至の祭(太陽の復活を祝う)」があると謂(い)う。私たちの正月の祝いも神事であり、祖先の霊も戻って来る。
 「祭り事」に精神的なある種の「神聖さ」が無いと、賑(にぎ)やかさを装っただけのただ喧噪(けんそう)のみが反響し合うだけで、事後には虚しさと気怠(けだる)さだけが残ってしまう。凛(りん)とした静謐(せいひつ)の裏支えがあればこそ、祭りの賑やかさも厚みが増す。
 祭り事の中に秘められたこの神聖な静謐の「場」、それは各自の心の中に沁み出して来るものであるが、そこでは無限の過去と無限の未来とが交差している。その交差点に佇(たたず)む自分に気がつき、日頃(ひごろ)の生活の中では刹那(せつな)の喜憂に浮沈するばかりで、忘れがちになってしまっている本来の自分を見つめ直し、心に積もっていた埃(ほこり)を叩(はた)き落として心の清浄を取り戻す。邪念から遠ざかり、目先の損得勘定から離れ、世間という小賢しさの澱(よど)みの中で溺(おぼ)れそうになっている自分の魂を救い出し、本来の自分に立ち返る。
 その浄なる心に映し出される様々な姿、それは親や兄弟姉妹の相であり、友人であり、故人であり、世相であり、過去であり、また未来である。日頃は見えない姿が現れて来る、聞こえない声や音が響いて来る、感じなかった波動が伝わって来る、思い浮かばなかったことが甦(よみがえ)って来る。
 
 祭り事はただのイベントではない。イベントに堕した祭り事からは、心の糧は得られない。祭り事はヒトが人になった時に生み出した叡智(えいち)の精華である。
 イベントを繰り返し、積み重ねるだけでは、ますます叡智から遠ざかってしまうのではないか?
 「学問」という言葉がある。それは叡智を求めることであり、ただ勉強したり知識や技術を習得したりすることではない。学問をすることは、「祭り事」に例えることができよう。祭り事の表現は知識や技術に彩られて賑やかではあるが、しかし、それは叡智とつながっている。知識や技術に塗(まみ)れているだけでは、それはただのイベントだ。

 「祭り事」の外観は、時とともに移っていくが、しかしその根底の意味が失われずにいることで「祭り事」であり続けることができる。
 さて、「まつりごと」という概念が、いつの間にか「イベント」という流行(はやり)に置き換わってしまって、もう随分と日が経つのではないか?

                                                        准教授 窪田 忍

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by bwukokusai | 2010-12-28 11:43 | 教員コラム

「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論-主体=「創造主」不在の文化-

オギュスタン・ベルクというフランス人の日本学者がいます。氏の『空間の日本文化』(ちくま学芸文庫)と『風土の日本』(同)は、日本文化の特質について、日本語の具体的な用法も押さえながら切り込んでいて、日本語と日本文化の関わりに興味を持っている私にとってとても示唆に富む本です。かなり読むのに骨の折れる本ではありますが…。

今日は、『空間の日本文化』の中で紹介されている、ベルク氏が日本語を学び始めて間もなくのころのエピソードからご紹介したいと思います。

それは、戦争映画の一シーンの中で出てきた日本語だとのことですが、その日本語に氏はとてもとまどってしまったと言うのです。
危険が迫ってきたのに持ち場を離れようとしない看護婦がいて、医者が理由を尋ねたそうです。すると、その看護婦は、しばらく黙っていたが、意を決し、目をそむけたまま、

「好きです。」

と言ったそうです。
字幕は、
Je vous aime.
字幕のフランス語は、「主語=私は、動詞=愛している、目的語=あなたを」で、≪SVO≫がそろっています(倒置はあり)。

それに対して、日本語のほうはどうでしょうか?
ベルク氏は、以下のように述べます。
***
ところが日本語の文章には、代名詞もなければ語尾変化もなく、誰が誰を愛しているかを示しうるような主語、目的語はいっさいない。おまけに、女性が問題の男性のほうを見ているわけでもない。この文章は、その場面のどこかに、ある種の愛の感情が存在していること以外、なにも示していなかったのである。(p.31~32)  太字:引用者
***

ここでベルク氏のとまどいに対するいわば日本語側の弁明として予想されるのは、「日本語は言わなくても相手に通じることは言わないで済ますのだ」という解釈だと思われます。しかしよく考えてみると、我々は上下関係が誰の目にも明らかな場合でも敬語を省略することはありません。また、受益感情を表す「~てもらう」、「~てくれる」などの表現が言わなくてもわかるからと言って省略されることもありません。
このように考えると、欧米の言語においては、「誰が」→「誰を」といった、主体の客体に対する働きかけをはっきりさせることに大きな拘りを持つのに対して、日本語はそのような拘りが弱いのだと言えそうです(いっぽう日本語は対人的な配慮にはとても強い拘りを持つ)。

同書では、日本においては<主体>に対する意識が希薄であることについて、人称詞の特異な用いられ方(人称が相手との関係でころころ変わる)をはじめ、二重主語構文(「私はあなたが好きです」)、「~と考えられる」・「~ように思える」などの自然発生表現、さらには、尊敬語と謙譲語の作られ方の違い(自然発生に関わる「なる」が「お~になる」のように尊敬語に使われ、主体性に関わる「する」が「お~する」のように謙譲語に用いられる)等をとりあげつつ、考察されています。

では、なぜ、日本人は、日本の文化は、<主体>に対する拘りをあまり持たないのか?
ベルク氏は、日・欧・中の神話に描かれた宇宙の発端の姿の違いにもふれつつ、そのカギは、「与えられたままの現実」、つまり「自然」というものの価値を積極的に認める日本人のあり方にあるとしています。要するに、氏は、日本の文化には、「創造主」の存在が希薄であると言っているわけです。(このあたりの詳細は『空間の日本文化』Ⅰ「環境におかれた主体 空間の精神的組織化」の1「主体は適応可能である」に書かれています。)

                                                       准教授 加藤 薫

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by bwukokusai | 2010-12-20 18:12 | 教員コラム

Gender Gap

As you prepare for college and life beyond, an issue I hope you will pay more and more attention to is gender gap-------the idea of inequality between women and men in relation to participating in society. Do you think you have experienced gender gap in your life so far? How “strong” is gender gap in your society? What do adults in your society think about gender gap? Gender gap persists globally. According to a recent report from the United Nations*, the Asia-Pacific region has “one of the world’s worst gender gaps.” What do you and your generation think should be done about gender gap?

*国連開発計画が出している報告書。コラムの内容をもっと知りたい方は、United Nations Development Programme, gender gaps にアクセスしてみてください


                                                 教授 チェスター・プロシャン

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by bwukokusai | 2010-12-14 17:44 | 教員コラム

国連の「拒否権」は必要?

国際政治学の授業を受講する学生から「先生、なぜ国連はすぐに動かないの?」と問われました。北朝鮮が黄海の延坪(ヨンビョン)島に砲弾を撃ち込み、民間人を含む4名の韓国人が死亡する事件が起きた翌日のことです。私が少し前にこの授業で、「国連のもっとも重要な役割の一つは、国際社会の平和と安全の維持に責任を持つことである」と話したためでしょう。一般に、国際社会で頻発している紛争は、その形も原因も多種多様で、どちらか一方が全面的に間違っているというような判断ができないケースがほとんどです。そのため、国連(大体の場合、安全保障理事会)は「平和と安全の維持」のための行動を検討する際に、「侵略者」の認定や対応の選択にはことのほか慎重になります。でも、北朝鮮の今回の武力行使に関しては、国連が迷う余地などどこにもないのでは? 学生の疑問もこのあたりにあったと思います。

国連が誕生してから65年が経ち、この間世界各地で起きた紛争は150を下らないと言われていますが、安全保障理事会が明確な制裁決議に基づいて迅速に動いた例はそれほど多くありません。なぜでしょう? 理由の一つは、安全保障理事会の常任理事国がもつ「拒否権」にあると言われます。これは、5常任理事国の「大国一致」の原則のことです。つまり、アメリカ、ロシア(1991年まではソ連)、イギリス、フランス、中国の5大国が足並みを揃えないと、国連は侵略者を認定することも、侵略行為自体を阻止すべく行動をとることもできません。冷戦時代に米ソ両国がこの拒否権をたびたび行使して、安全保障理事会を半ばマヒ状態にしてしまったことはよく知られていますね。拒否権を国連の「癌」だと酷評する人もいたほどです。

では、国連はなぜこの拒否権をなくしてしまわないのでしょう? 国連事務次長として長年多くの国際問題に直接かかわってきた明石康さんは、拒否権を国連の「安全弁」と表現しています。拒否権がなくなった国連を想像してみましょう。その場合、紛争などが起きると、安全保障理事会または総会の三分の二の多数決によって国連の制裁措置が可能となります。そうなると、核兵器を持つ大国を相手に国連が軍事行動をとる可能性も出てきますね。このような場合、平和と安全を維持するどころか人類の存続が危ぶまれる世界戦争の危険すら生じてしまいます。「安全弁」の表現は、このような文脈で使われています。また、「ソフトパワー」という言葉を最初に使ったアメリカの国際政治学者ジョセフ・ナイは、拒否権を国連の「ヒューズ(ブレーカー)」と表現しました。「家(世界)が全焼するより、ヒューズがとぶ(拒否権の発動で安全保障理事会がマヒする)方がまし」というわけです。 

国連は、二度に及んだ世界大戦への深い反省から生まれた史上最大の国際機構ですが、実は大きな力をもつ国々の意向に強く影響される組織であることが、いまさらながらに確認できます。そうだからといって、国連や国際社会の現状のすべてを「力の論理」で説明することもまたできなくなりつつあります。テロリズム・経済不況・地球環境の悪化・核拡散など、現代の国際問題は例外なく国際社会の協力なしには解決できないものになっているからです。たとえ核超大国であっても力ずくではこうした問題に打ち勝つことができないことは、2001年の同時多発テロとその後の国際情勢が証明していますね。オバマ大統領は、昨年4月、国際協調の必要を訴えた演説の中で「核のない世界」を謳いました。理想主義を語ったもののようにみえますが、実は極めて現実的な提言でもあるのです。

                                                       教授 中沢 志保

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by bwukokusai | 2010-12-08 11:09 | 教員コラム