文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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カテゴリ:教員コラム( 227 )

Reading History Helps to Understand the Present

One of my hobbies is reading history. I especially enjoy reading about America’s Civil War, and one of my favorite Civil War writers is Shelby Foote. I’ve just finished reading his narrative of the war. His writing makes the war clear and easy to understand and the way he tells the story captures the tragedy and drama of the war. As one of the defining events of American history, understanding the Civil War, its causes and its consequences, is essential to understanding America today. Even now the questions that were important factors in the war, especially the question of whether power should be concentrated in the states or in the federal government, continue to be important in today’s political environment. For anyone interested in a deeper understanding of the Civil War, therefore, a better understanding of current political issues in America, I strongly recommend Mr. Foote’s books*1.

*1: The Civil War, by Shelby Foote was first published in 1958
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教授 チャールズ・ヒューベンソール

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by bwukokusai | 2014-05-27 10:00 | 教員コラム

自分に負荷をかけて英語を磨け!

ゴールデンウィークを利用してスコットランド留学時の指導教授が来日した。日本で働いている娘を訪ねてきたのだが、20数年ぶりに会うことになった。詩人でもあるため、もともと言葉にはウィットがあり、すばらしくうまい表現をする人だったが、会って10分くらい話すと、「君は留学中よりも英語がうまくなったな」と言われた。24時間英語漬けで、夢まで英語で見た現地での英語環境に比べて、そんなはずはあるまいと思ったが、相手はイギリス人。言葉の意味は直球ではない。「君は帰国後も日々の努力を続けたな」という意味だと勝手に解釈した。

私は帰国子女ではない。今ある英語力は日本で勉強した結果である。留学すれば確かにリスニング力やスピーキング力はすぐに身につくが、帰国して日本語だけを話していれば、2週間もたてばすぐに言葉は出てこなくなる。言語とは日々使っていないとすぐに使えなくなる。では、日本のような、日常で英語を全く使わないような環境で会話力を習得するにはどうするか。習字のようにお手本を見てそっくりに真似をすることである。映画やニュース、電車内での英米人の会話などから、「こういう表現があるのか!」と思ったものをすぐにスマホにメモしておく。日本語訳を書いておいて、それをどんどん書き溜めて、自分の辞書を作る。作っただけでは会話力向上には役に立たないので、1日5分でもよいから、スマホの文章を見ながら何度も読み上げ、暗唱できるようになるまで練習する。私は今でもこのようにして毎日20回は暗唱している。英語を母国語とする相手がいなくても、毎日練習を欠かさない、これが英会話を日本で鍛える練習法だと私は信じている。

久しぶりに会った指導教授は奥様とご一緒で、おまけに二人ともがすさまじく雄弁な方々。二人のネイティブから矢継ぎ早に質問を浴びせかけられ、さすがにしどろもどろになった。しかし、二人の早口な英語を集中して聞いていると、自分の脳の中がものすごい速度で回転しているのを感じた。同時に自分の話す英語がどんどん磨かれていくのがわかった。日本人に必要なのは、速い速度の英語を集中して聞き、その英語の速度に必死になってついていき、自分の意見を頭の中で英語で組み立てていく練習ではないだろうか。英語を勉強している学生は、ニュースなどの速い英語をスマホに録音し、電車の中で聞きながら、全部聞き取れなくても「このトピックなら、自分の意見はこうだ」と頭の中で英作文する練習をするとよい。

別れ際に指導教授は、「1年以内にまた日本に来る機会があるだろう。その時は、君のさらなる英語の上達を楽しみにしている」というウィットに富んだ言葉を投げかけた。留学時代から人にプレッシャーをかけることがとても上手だった教授らしい言葉に、再び冷や汗がでた。

教授 白井菜穂子
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by bwukokusai | 2014-05-20 09:00 | 教員コラム

《ルーブルよりも素敵な所――虫好きファーブルさんの天国》

学生に独りよがりなアドバイスはしたくない、とよく思う。独善的な判断もしたくない、としばしば考える。自分をいさめる時、よく思い出す偉人のエピソードをひとつ紹介しよう。

1878年から30年にわたって全10巻が出版された『昆虫記』で知られるファーブルは、文部大臣に招かれてパリに赴き、レジオン・ドヌール勲章を受けた。その際、テュイルリー宮殿では皇帝にも謁見している。しかし、その晴れがましい機会にさえ、彼は一刻も早く故郷に戻りたがっていた。驚いた大臣に、「君は、パリの博物館も見ないつもりなのですか?」と問われたファーブルは、「野のたぐいなき博物館の方が、私の気にもずっとかなっていますし、いごこちもよいのです」と答えたそうだ。

ファーブルの弟子のルグロによる『ファーブルとデュルイ』を読むと、「ファーブルは、もうパリなんかまっぴらだった。人間のこの巨大なうずの中にいる時ぐらい、深く孤独地獄を味わったことはない」というくだりがある。文部大臣のデュルイはファーブルとは旧知の仲で、要職につく前からファーブルの研究姿勢を認めていた人物だった。ファーブルの方でも、大佐時代から職務を立派に果たす彼に対して深く敬意を抱いていた様子だが、「野の博物館」から遠ざかって過ごす時間は、この昆虫学者にとって恐怖にも近い淋しさを伴っていたらしい。
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今の世にあっても観光客数1位を毎回のように誇る「花の都」、それも、ファーブルにとっては、華やか過ぎる地獄であったというわけか。このような場合、So many men, so many minds. (十人十色)とまで言わなくても、短く Tastes differ. (好みは、それぞれ)と言えば、おおまかな意味ではこと足りる。

あなたにとって、ルーブルよりも素敵な所は、どこだろう?それを守り、周りからも尊重してもらうためには、他人の愛する cozy nook (居心地のよい場所)も尊重しよう。それは何も場所に限ったことではなくて、違いを楽しみ尊重し合う共存の精神こそが、住み易い世界を作っていくのだから。「自分の居場所など、どこにもない」と感じる人の嘆きがなくなるように、一人ひとりが落ち着きと安らぎを見出せる社会を、認め合う心をもって築いていこう。

重ねて、学生諸君が皆、祝福された居場所を持てることも、願ってやまない。


教授 久保田 文
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by bwukokusai | 2014-04-29 09:00 | 教員コラム

ギネスブック(Guinness Book)

テレビや新聞などの報道で、よくギネスブックの名前を耳にする。最近では、日本のフィギュア界を代表する浅田真央選手と羽生結弦選手の今季の試合のプログラムでの得点が世界歴代最高を更新し『ギネス世界記録』に認定されたという報道があった。今回はこの『ギネス世界記録』について触れてみたい。

『ギネス世界記録』または『ギネス・ワールド・レコーズ』は、世界一の記録を収録している本であり、ある基準に従い世界一を認定する組織でもある。日本では長く『ギネスブック』として親しまれていたが、2002年度版から『ギネス世界記録』に変更された。現在100以上の国々で37の言語で出版されており、毎年新しい本が世界中で約350万部販売されているという。これまで累計一億冊以上の販売数の記録があり、世界一のベストセラー(現在著作権のある書籍)として自ら『ギネス世界記録』に認定されているという。あらゆる分野の世界記録と人間のもち得る力の可能性が列挙されており、百科事典的な役割も『ギネス世界記録』は果たしている。また、笑いを誘うような挑戦の記録まで網羅しており、もしかしたら自分にもできるかも知れないと思わせてくれる身近な記録も中には見つけることができる。そういった点が人々を惹きつけているのかもしれない。

この『ギネス世界記録』の発売元はギネス・ワールド・レコード社だが、実は世界的に有名なギネスビールと密接な関係がある。1951年アイルランドのギネスビールメーカーのギネス社社長のサー・ヒュー・ビーバーが狩猟に出かけた際、仲間たちとの間で、「狩りの獲物の中で世界一速く飛べる鳥はヨーロッパムナグロかライチョウか?」という議論になった。だが誰もその問いに答えることができなかったし、その後もこの疑問は解明されなかった。このような疑問に答えてくれる本があればきっと評判になるとビーバーは考えた。そこで彼はロンドンで情報調査会社を経営していたマクワーター兄弟に調査と出版を依頼した。そして1955年に『ギネス世界記録』の前身である『ザ・ギネス・ブック・オブ・レコード』が日の目をみた。それ以来、このギネス・ワールド・レコード社はギネス社の関連会社であったが、2008年にカナダの実業家が所有するグループ会社に買収された。

『ギネス世界記録』の誕生秘話も興味深いが、このギネスブックを通して「世界における最大、最小、最速、最高」等を知ることは、人間の可能性や世界の多様性を知る良いきっかけでもある。


教授   石田 名都子
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by bwukokusai | 2014-04-22 10:00 | 教員コラム

さくらさく

春になり、小平キャンパスの桜も満開になりました。よく言われることではありますが、もやのような薄紅色が無骨な幹に支えられて空いっぱいに広がる情景、花びらが風とともにくるくる舞い散り、歩く人を取り囲んで流れる情景など、千年を超えてその時代時代に流行する歌に詠まれてきた美しさは、やはり凄いものです。来年度、国際文化・観光学科は現代文化学部移転に伴い、新都心キャンパスへ移ることになっています。今年で見納めという気持ちと桜の花のありようがシンクロして感慨深いです。
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桜の開花とともに、今年も新入生が小平キャンパスにやってきました。この大学生活が彼らの人生において大きな学びと成長の時期になるようにと願っています。

国際文化・観光学科は、多様な文化と、そのような文化を持つ人たちにどう向き合うか(具体的な形を取るなら日本を訪れる外国の観光客にどうホスピタリティをもって接するかなど)を学ぶところですし、大学そのものが、答えの確定しない問いの答えを得るために、いろいろな意見をたたかわせながら、知恵を合わせるところです。大学の中ではいくどとなく今の自分とは異なる存在や考え方に出会うと思いますが、それらを曇り(偏見とか)なく認識し、今の自分にはない新しいものの見方を発見し、わくわくしてほしいです。

ただ、異質なものは今の自分を否定する部分を持つこともありますし、それを認めたら自分の立場が成り立たなく見えることもあります。日常生活の中では、そういうときに相手を攻撃する気持ちにならないと相手の論理に飲み込まれ自分が保てなくなることもあります。でも、攻撃はある意味弱さのあらわれで、異質な何かは、自分の論理は何かを見つめなおし自分自身はどんな立場で存在なのかをつかみなおす手がかりとなっているのも確かではないでしょうか。それも学びの機会です。

さらに、どちらかの論理だけが正しいからそっちを取る、というのでなく、異なる意見でも互いの主張のその奥を探って、どこかに理解可能な部分があるという前提で考え、それを見つけることができれば、そこからハイブリッドでより強靭な考え方、やり方が見つかる可能性もあります。

「その奥を探ろうとする」気持ちがなければ、自分と違うものを否定することが自分の論理や価値を守ることだということになります。他者の否定を声高に言う風潮はあちこちにあります。ですが、そこから何かが生まれるものだとは思えませんし、逆に自分自身を細らせていくのではないでしょうか。学生の皆さんはそれに損なわれないでいてほしいと思います。

先週の授業で、「小学校や中学のとき他の国から来た同級生がいて、言葉が通じなかったり、考え方がこっちと違っていると思うことも多かった。それがすごく面白いと思って、勉強しようと思った」と言った学生さんがいました。自分と違うことに出会うことは本来楽しいことでもあるのだと改めて気づかされて、頼もしく思いました。


准教授  星 圭子

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by bwukokusai | 2014-04-15 10:00 | 教員コラム

うぐいす・ほととぎす・たんぽぽ

山口仲美先生の退職記念講演会に出かけてきました。擬音語・擬態語の歴史的研究をしていらっしゃり、2005年に日本テレビの「世界一受けたい授業」でも取り上げられ、2008年に紫綬褒章を受賞されています。以前からご著書を興味深く拝読していたので、是非「生山口」にお会いしたいといそいそと出かけました。ご講演の内容から、いくつかご紹介します。

春告鳥とも言われるうぐいす(歴史的仮名遣い;うぐひす)はホーホケキョという鳴き声で知られています。この聞きなしが行われるようになったのは江戸時代で、当時は法華経(ほけきょう)という意味が掛けられていました。
それ以前はというと、ホーホケキョからは想像しにくい「うくひず」、「ひとく」と聞きなされていたそうです。

「いかなれば 春来るからに うぐひすの 己が名をば 人に告ぐらん(どういうわけで春が来るとすぐにうぐいすが自分の名を人に告げるのだろう)」(『承暦二年(1078年)内裏歌合』美作守匡房)

「心から花の雫にそほちつつうくひずとのみ鳥の鳴くらん(自分から好んで花の雫にぬれながらどうしてあの鳥は『つらいことに羽が乾かない』とばかり鳴くのだろう)」(『古今和歌集』藤原敏行)

このような歌が残っているということは、当時の人にはその名が鳴き声から来ているという意識が広く受け入れられていたことを示しています。

「梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしもをる(私は、梅の花をこそ見に来たので、他のものに用があるわけではない。それなのに鶯が『人が来る人が来る』と嫌がっているのは、どうしたことだ)」(『古今和歌集』読人知らず)
この「ひとく」という聞きなしも一般的だったそうです。

ハ行音は時代によって変化しています。文献以前の古い時代はp音であったとされ、それが奈良時代にf音になり、江戸初期にh音になりました(ハ・ヘ・ホの子音の場合)ので、ウーグピス、フィートクという音として捉えられていたと考えられます。


「鳴かぬなら…」という信長、秀吉、家康の性格をあらわしたという川柳や山頭火の「ほととぎす明日はあの山越えて行こう」などでほととぎすはおなじみの鳥です。鳥の名としてはよく知られていますが、その姿、鳴き声は今ではあまり知られていないのではないでしょうか。平安時代には初音を聞くために夜通し起きて鳴くのを待つこともあったのだそうですし、江戸時代に入ってからも「目に青葉山ほととぎす初鰹」と初音を聞くことは初夏の風物詩でした。

このほととぎすという鳥名も鳴き声という擬音語に由来するものなのです。

「暁に名のり鳴くなるほととぎすいやめずらしくおもほゆるかも(暁闇の中で自分の名を名のって鳴いているほととぎすが、ことさらになつかしく思われるなあ)」(『万葉集』巻一八)

「ほととぎす」という聞きなしは江戸時代には忘れられ、「テッペンカケタカ」という今に伝わる聞きなしがされていました。ウェブで鳴き声を聞くことができます。どう聞こえるでしょうか。

ところで、ほととぎすという花をご存知ですか。何故鳥の名がついているのかと長年思っていましたが、ほととぎす(鳥)の写真を確認して納得しました。花のまだら模様がほととぎすのまだらとそっくりなのです。
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空き地などで春に見かけるたんぽぽ、この名前も擬音語から来ているのだそうです。
コロリンシャンはお琴。三味線はチリトテチン、チントンシャン、太鼓はテレツクテンテン。そして、小鼓はタン、ポポ。これらは単にその音色をあらわしているだけでなく、楽器の弾き方、打ち方を示す言葉なのです。
日本の伝統音楽の楽譜は記号で書かれており、それをお師匠さんが歌いながら教えてくださるのだとか。(記号の書かれた楽譜を示され、小鼓語を連発しながら鼓を打つお師匠さんに「まねて打ってください」と言われるけれど、パニックになったと小鼓を習った方が書いているのを読んだことがあります。)

ではなぜこの植物が小鼓なのかというと、たんぽぽ遊びに由来するのだそうです。たんぽぽの茎を裂いて水につけるとクルクルとしっかりと巻く特性を利用した遊びです。今の子どもが遊びと感じられるかは疑問ですが、面白いですね。試してみました。
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色々なことを知ることは楽しいです。次から次へと疑問が浮かび、それを調べていくことは楽しいことです。これから新学期が始まります。皆さんはどんな発見をしていくのでしょうか。

さらに、知りたくなった方は以下の本をご覧ください。

山口仲美 (2008)『ちんちん千鳥のなく声は』 講談社学術文庫
      原本は1988年に大修館書店から刊行されました。


教授 齊藤眞理子
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by bwukokusai | 2014-04-08 09:00 | 教員コラム

「ここはどこ?」 「私は誰(何者)?」

 世の中を見渡せば、「これは上手くできた仕組みだなぁ」と感じるものもあれば、「よくもまぁ、こんなひどい仕組みのなかで、皆よく我慢している(あるいは無感覚で受け容れている?)なぁ」と思われるものもある。ある仕組みが、たとえそれが世の中では「誠に結構なものである」との評判を取っていたとしても、私としてはそれに取り込まれるのは御免被りたい(あるいはキライ)ということもあるし、「ひどい仕組みだ」と評価されていたとしても、自分から見れば逆に人々(特に当事者たち)の本性に合っているから肯定できる(あるいはスキだ)ということもあり得る。
 人間について言えば、その人物の社会的な地位など、つまり職業・年齢・男女の別とか、また“偉い”地位に就いている人か普通の庶民であるかとか、さらに世の中の評判とかに関わりなく、「この人、本当に深みのある人だなぁ....」と内心敬服できる人物もいれば、「えっ?何だコイツ!」と呆れてしまうヤツもいる。もちろん、その人物が深みがある人格者だから(世間の評判であるか自分の印象であるかは別にして)と言っても、私としてはどうにも好きになれない(どちらかといえばキライだ)という人物もいれば、確かに評判通りのとんでもないヤツであっても、それだからこそスキだ、ということもあり得る。つまり、世間の評判や場合による仕組みや人物に対しての善い(良い・佳い)印象や評価があるからと言っても、それは必ずしも自分の見立てとも一致するとはかぎらないし、さらに「スキだ」ということにもならない。逆に評判が善く(良く・佳く)ないからと言っても、自分の見識による評価と同じになるとは限らないし、「キライだ」ということになるとも限らない。世の中の善・悪の評判と好む・好まないとの感じ方、それと自分のそれとの関係は単純なものではない。
 
 どのような世の中の仕組みや人々に対するにせよ、自分がある印象を持ったり、選択したり、判断したりするのは、その時点で自分のなかにできあがっている(意識的あるいは無自覚的に形成された)ところの何らかの基準よってである。では、その基準はどのような構造をもっているのだろうか。ある程度は真面目に自分の人生と人格に責任あるいは誇りを持って生きようとするのであれば、これはぜひとも分析・思考するのに値する実に身近で重大な問題ではないだろうか。
 私たちは日々の生活のなかで常にあれやこれやの選択・判断をしながら、あるいは選択・判断を迫られながら生きている。しかし、その際に自分がするそのような選択・判断の基準について無知であったり理解が浅いとすれば、独り立ちして生きていると思っている、あるいはそう思いたい自分とはいったい何者なのか、という不安が募りはしないか。自分の日常の行為や思ったことについて一日に3回の反省(通俗的な意味での)をせよとまでは言わないが、しかしその基準のことについては、少なくとも時々は通り一遍の反省よりもさらに一歩深めた沈思黙考・再考をしてみるべきではないだろうか。ただ「空気を読んで」流れ(往々にして濁流だが)に身を任せ、その場しのぎのご都合で「生物現象的時間(マトモな人生とは思えないので敢えてこう表現してみたが)」を取り繕って過ごすことは、たとえ「これが私の人生です」と胸を張ったとしても、それは自分を失った付和雷同の時間のやり過ごし方そのものである。言うまでもなく、本人がそのような生き方、万事を付和雷同の原則でやっていく処世の方法を「善し/良し/佳し」と自覚的に選択しているのならば話は別だ(たしかに一応それは他人からとやかく言われる筋合いのないことであり、本人の勝手ではありますが.....)。

 さて、その選択・判断の基準についてであるが、ある時に一念発起して意識的に設定し、強い意思の力で堅持し続けているものもあるだろうが、大抵はこの世に生まれてからほぼ無意識のままに段々と形成されてきた(いわゆる「刷り込み」によって)ものがほとんどであろう。確かに各人には生来のDNA由来の性質(しかも万人が一様に同じというわけではなさそうだ)があることは否定できないものの、しかしそれだけですべてが決まってしまうということではなさそうだ。生まれ育った家庭の環境(家風・文化・価値観・教育・躾など)を通して、そして成長してからは社会の環境(政治経済のシステム・文化・風俗や習慣・雰囲気・流行・価値観など)や人生経験(人との交流や読書など)の不可避的な影響に包まれながら、各人の葛藤を経ながら、徐々に形成され続けていくものであり、いのちの尽きるまで終ることがない。こう言ってしまうと、自分のもっている選択・判断の基準は環境によって形成されたのであるから、究極のところは本人の責任ではないと受け取られてしまいそうだが、そうではない。自分が人生を真面目に生きようとし、自立的かつ自律的に生きようとするのならば、自己はそれなりに確立されねばならないし、何より自分が自分に責任を持って生きねばならない。そのためには自分の基準についての検証と再認識と再確認が必要であり、これを通してはじめてその基準を本物の自分の基準にすることができる。だからこそ先に述べた沈思黙考・再考が必要とされるのであり、自分が自分を良く知り理解する必要がある。そして内心の自由はここからしか生じてこない。内心の自由のない所に人間の生きる自由もあり得ない。自分の心の自立と自律のない所に自由は存在のしようがないし、自分の人生に自由であることと責任を持つこととは、表裏一体のものである。人間は社会的な動物であること、人々と何らかのかかわり合いをもって生きるものである以上、自分がどのような基準をもって生きるのかということは、自分以外の人々の人生とも関わって来ることでもあり、未来に生まれて来る人類の後代にも影響を及ぼすことでもある。

 
 では、自分の選択・判断の基準が育まれた土台である家庭環境や社会環境はいったいどのようなものであり、どのような性質を持ったものであるかを知り、理解するにはどうすればよいのか。そのためにはそれ相応の知識と評価眼・価値観が必要である。
 家庭は社会とつながりをもっており、社会はより広い社会(国家や国際社会)とは無関係ではない。そればかりか、時間の上でも過去に生きた先代たちやその社会とつながっている。つまりその時々の生活の場という平面としての横の広がりと、その時々に至るまでの時間上の縦の軸(歴史、由来、来歴と言っても良い)がある。そしてこの縦・横のことは自分で学び・調査してみるしかないし、さらにそれを通して得たいろいろな知識は個々バラバラの断片の集積であっては役に立たないのであって、縦軸と横面が結びついた、連動し合ったものとして理解ができる「教養」にまで高められていなければならない。これこそが本来の学問の意味と必要性なのである(特に高等教育機関としての本来の「大学の存在価値」はここにある)。学問をするということは、しっかりとした自分の基準・価値観をもとうとすることであり、自由を獲得し、広げていくこと、人生を生きる人間の内面に豊かさと厚みをもたらすことが主目的なのであって、近代以降に流行の、できるだけ少ない苦労・労力で、都合よく、世間の波に乗ったいわゆる“経済効率性の高い”“お得な”生物現象的時間を過ごすための知識・技術・技能や資格の獲得だけが目的なのではない。もちろん知識・技術・技能・資格は、それを使うこと自体が社会の公益(当然のことながら社会の安全を含む)と直結する事柄であり、それを第一の意義として伝承され発展してきた人類の共有の財産なのであるから、自己満足に陥ることなく真面目に習得せねばならない。公益が図られることが前提となり目的とされているから報酬・収入がもたらされるのであって、その逆ではない。そうした公益を図ること、つまり人々とのつながりを保って生きることが人間の生存の仕方であり人生なのであれば、その当事者である自分を支え続け、より豊かに公益を図るためには、その個人の内心の自由が必要とされるであろう。つまり、その内心の自由を得るために、自分の人生に対する責任を厚くするために、自分に負荷をかけ続けることこそが学問をすることである。負荷などと言うと、それは苦行なのか、と思われるかもしれないが、見識の広さと深さが増し、自分や他者(人ばかりでなく仕組みについても)への理解が深まれば、新たな精神的境地に達することができ、たとえばより高い所からより広い視野を得るような、何がしかの心の豊かさを感じ取ることができるようになる。そういう意味で、学問をすることは心の味覚を豊かにすることであり、あじわいのあることであって、苦行と同一視できない。もちろん、自分が自分の人生に対して主体的な興味と関心、そして「こころざし」をもっていることが先に立っていなければならず、もしそうではなくて目先の利害損得だけのため、あるいは他者(人や仕組み)からの強制によるものであれば、それは苦行に似たものになるだろう。

 
 ついつい話が小難しくなってしまいましたが、要は自分の人生をより自由に、より自立的・自律的に生きるにはどのようにするか、ということでした。その第一歩、そしてまた帰着点は:「ここはどこ?」-----いま生きているのはどのような時代と社会であり、「私は誰(何者?)」----自分をどのような人間に形成して人生を生きようとしているのか、という根源のことを問うことにあると思います。それは価値観に関わる問題ですし、決して終生尽きることのない、何度も反復しながら質を高めていく「問答の営み」なのではないでしょうか。
 紙幅の関係上、かなり舌足らずの感もありますが、続きや関連事項は本ブログの次の機会(3〜4ヶ月後?)に譲ることにします。
 

准教授 窪田忍
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by bwukokusai | 2014-03-27 09:00 | 教員コラム

「敬語行動」をめぐる日韓比較 …浮かび上がる「相手(二人称)」と「集団」の重さ

韓国語は日本語と同じように敬語体系を持つ世界でもごく少数の言語のひとつです。尊敬語や丁寧語が韓国語にもあります。しかし、日本語と韓国語の敬語には興味深い違いもあります。今日はこの点について少し整理することで、日本社会の特徴の一端について考えてみたいと思います。

両言語の敬語の違いとして指摘できることのひとつは、いわゆる「相対敬語」か「絶対敬語」かの違いです。
韓国語では、例えばうちに電話をかけてきたお父さんの会社の人に対して子どもが次のような答え方をします。

「お父様は今食事をしていらっしゃいます。」

つまり、韓国語では、目上の者(上司や父親)のことを話題にするときは話し相手が誰であろうと上位者として待遇するわけです(絶対敬語)。
それに対して、日本語では、電話をかけてきた取引先の人物に対して社員は次のように答えます。

「部長の佐藤は、ただ今席をはずしております。」

日本語では、たとえ上司のことであってもソトの人に話すときは、「おります」と謙譲語を使い低めた扱いをします(相対敬語)。
(韓国語についての情報は仁・井出(2004 ,p.120~124)、斉藤明美(2005,p.83~88))

この「相対敬語」か「絶対敬語」かの違いは、敬語を使用する上で「相手(二人称)」の存在に対してどれだけのウエイトを置くかの違いといえます。話す「相手」が誰であれ目上の人を話題にする時には上位待遇をするのが絶対敬語の韓国語。たとえ目上であっても、話す「相手」によっては低めた扱いをするのが相対敬語の日本語です。つまり、日本語においては「相手」が敬語選択の上で重要な位置を占めているわけです。このことは、日本人にとっての「相手」の存在の大きさを示す現象のひとつとして注目されます。
 
もうひとつ、日本語の敬語と韓国語の敬語とをくらべて注目されるのは、敬語の選択に占める「年齢」のウエイトです。日本語においても年齢は敬語選択の重要な条件のひとつになっていますが、韓国語とくらべた場合、興味深い違いが浮かび上がります。それは、「年齢」と「集団への参入年次」が食い違った場合、そのどちらが優先されるのかの問題です。
一般に大学では浪人等によって同一の学年にも年齢差が見られます。この点は日韓に変わりはありません。ところが、日本では「学年」が大きな位置を占め、同学年であれば年齢差(浪人と現役等)があっても、通常、

「明日のパーティ、行く?」
「うん、行くよ。」

のように、ともに非敬語が使われます。さらに、次の例のように、サークル活動等において、年上の後輩年下の先輩に対して丁寧な表現を使い、いっぽう年下の先輩が年上の後輩に対してぞんざいな表現を使う(二浪と現役のような場合)ということも普通に行われています(親子ほどの明確な年齢差がある時は違うでしょうが)。

年下の先輩「お前、明日のパーティ、行くの?」
年上の後輩「ええ。行こうと思ってます。先輩はどうされます?」

つまり、日本の大学生の間では、通常「学年」という組織内序列が「年齢」という個人的属性を抑え、敬語使用の条件として優先的に働いているわけです。いっぽう、韓国では年齢が重視され、同学年であっても年上の者には丁寧な表現を使わなくてはならないといいます(斉藤(2005)p.5)。さらに、本学で学ぶ複数の韓国人留学生に確認したところ、後輩であっても1歳でも年上ならば丁寧な表現が使われるそうです(その際、年上の後輩も年下の先輩に対して、上級生であるからとして丁寧な表現を使うといいます)。
キャンパス内において年齢という個人的な属性は無視され、集団への参入年次が敬語選択の条件として優先的に採用される日本と、集団の中でも参入年次以上に年齢という個人的な属性が重要視される韓国。この日韓の違いは、日本人にとっての「集団」の存在の大きさを物語っているように思われます。

もっとも、複数の韓国人留学生(入隊経験者含む)に確認したところ、敬語を使うか否かにおいて、軍隊では年齢よりも隊内の序列の方がより優先されるようです。また、先に話題にした絶対敬語か相対敬語かについても、韓国においても階級や職階等の明確な軍隊等の集団においては、「(話題にする)第三者が自分より年齢や職階の高い人であっても、その人より年齢や職階がさらに高い人の前ではその人を高められない」という相対敬語的な敬語法(押尊法)があるとのことです(ホン ミンピョ(2007)p.90)。
韓国語とくらべて浮かび上がった日本語の敬語の特徴が、韓国の軍隊内における敬語の特徴とは重なる点があるというのは、興味深い現象に思えます。


参考文献:
加藤薫(2014)「世間論と日本語 ―世間論に符合する日本語の文法的特徴―」『世間の学 VOL.3』日本世間学会
斉藤明美(2005)『ことばと文化の日韓比較』世界思想社
仁栄哲・井出里咲子(2004)『箸とチョッカラク』大修館
ホン ミンピョ(2007)『日韓の言語文化の理解』風間書房



教授 加藤薫
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by bwukokusai | 2014-03-18 09:00 | 教員コラム

「大人」になるための条件は?

卒業シーズンですね。文化学園大学の卒業式は、例年3月11日に行われます。東日本大震災の日です。これまでの社会や生活のあり方を根本から問い直す機会が与えられたこの日に、文化学園から今年も新たな卒業生が巣立っていきます。当然のことかもしれませんが、この3月11日に門出を祝うことには、やはり格別の思いを抱かずにはいられません。

今日は、この時期になると思い出す新聞記事について書いてみます。哲学者の中島義道さんが、2009年4月16日の朝日新聞に寄せた文章です。社会人になりたての若者を念頭に置いたと思われるこの記事には、「大人になる君へ、他人のせいにしない」というタイトルがついています。関心のある方はインターネットで調べてみてください。

記事の冒頭で、中島さんはまず、「大人になるとはすなわち感受性も思考も凝り固まっていくこと」と述べ、良い意味で読者の期待を裏切ってくれます。彼には、分別顔で「世の中そんなに甘くない」と説教するつもりなどさらさらないのです。哲学用語を使って「大人」を定義づけようとしているわけでもありません。そうではなく、とても具体的な「大人」になるための条件をあげているのです。ひとつは、経済的に独立すること。これ以上わかりやすい基準はありませんね。そしてこの第一条件と同じくらい重要な条件として、彼は「他人に依存しない生き方を実現すること」をあげています。これは、ハードルの高そうな基準ですね。でも、「人間関係を自力で開拓せよ」と文章は続けられていますので、「一切他人の世話にはなるな」と言っているのではないでしょう。そして、この二条件を備えたうえで、困難に直面した時でも、「なるべく(この緩やかな言い方が良いですね)他人のせいにしない」姿勢を培っておけば、「強く柔軟で深みのある大人になれる」と結ばれています。

中島さんのメッセージは、すでに「大人」になっているはず(?)の私自身にも直接響いてきます。いったいどのようにすれば、「他人のせいにしない、強く柔軟で深みのある大人」になれるのでしょう。ついでに、私の専門である国際政治の分野にまで視点を広げてみましょう。国際社会で頻発する紛争の原因は多様ですが、敵対者にその責任のすべてを負わせようとする、つまり「他人のせいにする」特徴は、どの紛争にも共通して確認できます。このような善悪二元論的な状況に陥りますと、相手を排除する発想しか生まれません。でも現代の国際社会で、異質なものや対立するものを排除することで解決できる問題は一つもありません。

このように、私自身の研究を進めていく上でも、中島さんの提言は示唆的です。個人として「大人」になっていくのと同じように、国や社会も「大人」になることが切に求められているのだと思います。

教授 中沢志保
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by bwukokusai | 2014-03-11 10:00 | 教員コラム

「2013年、訪日外国人旅行者数が1,000万人を超える」

 昨年12月20日に成田空港に到着したタイからのご夫妻が、2013年の1,000万人目の日本を訪問した外国人旅行者となりました。同日、1,000万人達成を祝う記念式典が同空港で催され、「日本を代表するキャラクター」ハローキティも駆けつけて達成を祝福し、また、タイからのご夫妻には国土交通大臣や観光庁長官から記念品が贈呈されました。(写真左下)
(以下、写真、グラフ、数字は観光庁ホームページ、観光庁資料、日本政府観光局(JNTO)資料によります。)
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 2013年の最終的な実績は1,036万人となり、昨年の836万人に対して24%増加し、史上初めて年間1,000万人を突破しました。上のグラフ(数字単位:万人)のとおり、2003年、ビジットジャパンキャンペーンが始まった年の訪日外国人旅行者数は521万人でしたが、2007年までの4年間で60%増の835万人を記録した後、リーマンショックや東日本大震災の影響などで伸び悩んでいた数字が、一挙に1,000万人に達したのです。

 この背景には、世界的な景気の回復やアベノミクスによる急速な円安、富士山の世界遺産への登録、東京オリンピック・パラリンピックの開催決定、ファッションやアニメなどの「クールジャパン」戦略の展開、「和食;日本人の伝統的な食文化」が世界無形文化遺産に登録されるなど、観光の環境・資源として日本をアピールするいくつものプラス要素がありました。
 一方、「尖閣」の影響で中国からの旅行者数が前年実績を割るというマイナス要素もあるなか、「日・ASEAN友好協力40周年」に合わせて昨年7月に実施された訪日ビザの免除、解禁など、行政の努力の影響も大きかったと思われます。具体的には、タイとマレーシアはビザが免除され、ベトナムとフィリピンはビザが数次化され、インドネシアは数次ビザの滞在期間が延長されました。これらの国から日本への旅行者数は絶対数こそそれほど大きくありませんが、前年比はタイが174%、マレーシア136%、ベトナム153%、フィリピン127%、インドネシア135%と大幅に伸びています。

外国からの旅行者数1,000万人を達成した日本ですが、下のグラフのとおり、2012年のランキングでは世界で33位、アジアでも8位の位置です。2013年のランキングでもアジアで8位は変わらないようです。世界1位のフランスは自国の人口6,600万人より多くの8,300万人の旅行者を国外から迎え入れています。
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観光は大きな投資を必要としないで経済を活性化させ雇用を促進するとともに、人と人、文化と文化の交流を生みます。日本政府は東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年には訪日外国人旅行者数2,000万人を目標としています。この数字を達成するためには前年比110%以上を毎年継続していく必要があるというハードルの高いもので、これからオールジャパンで様々な取組みが必要となってきます。

 観光庁の調査(訪日外国人消費動向調査2013年)によれば、訪日外国人旅行者は滞在中インターネットで情報を得る比率が高く、また、到着後最も知りたい情報は、1位「交通手段」(回答者比率59%)、2位「飲食店」(41%)、3位「宿泊施設」(35%)、4位「買い物場所」(31%)、5位「観光施設」(30%)、以下、「トイレ」(16%)、「お土産」(15%)となっています。 
 この調査を踏まえれば、「公衆無線LAN」の拡充、英語をはじめとした多言語「コミュニケーション」能力、「交通経路情報」の提供などがますます必要になってくるでしょうし、その他にもハード面、ソフト面そしてヒューマン面のさまざまな対応策が必要です。なによりも、日本を訪れる外国人旅行者が安心して旅行ができる環境を提供することが重要です。その実現のためには観光や文化を学ぶ学生の知恵と情熱とエネルギーがこれから大きく貢献するに違いありません。日本を訪問する多くの外国人旅行者が日本と日本人の魅力に触れ、私達が「おもてなし」の心を発揮した結果、彼らが日本での旅行を楽しめたとしたら、それは素晴らしいことではないでしょうか。

教授 高橋哲夫
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by bwukokusai | 2014-02-18 09:00 | 教員コラム