文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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2013年 07月 09日 ( 1 )

自分との会話は「独り言」。では、自己との「対話」は・・・・「汝自身を知れ」。

ヒトはどちらかというと、おしゃべりな生物なのではないか? 見知ったもの同士が寄り集まると、すぐにぺちゃくちゃとコトバを発し出すし、そうすることで安心感を得ている。もし見知ったもの同士が寄り集まっても、お互いに何も言葉を交わさず、また身振り手振りや表情の変化さえもない状況を想像すれば、それがいかに奇妙で、ある種の不気味ささえも感じてしまうことかがわかる。つまり、ヒトという生物は、騒がしくしていないと落着かず、不安になってしまうという困った性向を持っているようだ。サル山のサルたちは、年がら年中キーキーキャーキャーと騒がしくしているイメージがあるが、実際に観察してみると、意外にも非常に静かだということに気付かされる。
 ヒトは寄り集まって話をする。コトバが交わされ、そこになにがしかの受け答えの状況があれば、それを「会話」と呼んでいる。お互いが自分のしゃべりたいことだけを勝手にしゃべっているだけでは、たとえ相手の話の合間に「そうそう」とか「うんうん」とかいう相槌(あいづち)や間の手(あいのて)を入れていても、会話は成立していない。それでもその場が成り立っているような雰囲気は醸し出されているから、まったく不思議なものだ。きっとコトバに拠らない別の原理でコミュニケーションが成り立っているのであろう(まったく驚嘆すべきことなのだが、コトバで何が伝達されているかはさほど問題ではなく、ただ音声が行き交っていること自体に何かを感得し、意味を見出しているのだろう)。
 それにしても、当世は「××会話」とか「コミュニケーション××」とかいう言説が流行り、賑わっている。そうあることで何らかの安心感が得られているのならば、それはそれで結構なことではあるが。

 閑話休題。
 「会話」というと、どちらかといえば、口からの音声コトバに意味を載せ、感情を込めて相手に伝え合うことに重点があるようだ。勿論、これはひとり二役でもできることで、その場合には「独り言」ということになる。
 これに対して「対話」となると、会話とは似てはいるが、違いもあるようだ。生きた人間同士である場合には、限りなく会話に近くなるが、お互いに正面を向き合って、真面目に話し合うというイメージがある。会話はおしゃべりでも良いが、対話はおしゃべりでは済まされない。
 また、対話の場合には、相手が人間でなくても、その場にいなくても可能である(勿論、かなり比喩的な表現であるが)。夜空の星々と対話することはあっても、会話をすることはないし、他界した親兄弟、親友たちとも対話はできるが会話はできない(会話していればオカルトっぽくなる)。その際、多くは口からの音声コトバではなく、心の中でのコトバが用いられる。さらには、読書の際にもその作品や作者と対話することはできるが、会話はできない。このような対話では、より一層深く、細かく相手の中身や背後にあるものを察知することに重点がおかれる。
 では、対話の相手を自分自身にすることはできるのか? 勿論、できる。つまり、「自己との対話」ということだ。より一層深く、細かく、自分自身の中身、自分を自分たらしめている要因や条件などを知り、理解する(別に自分に納得する必要はないが)ことである。
 人間はよく自分を省みることがあるし、何かにつけて反省したりするが、それをもう一歩先に進めて、忍耐強く「自己との対話」を深めることにまで踏み込んでいけば、往々にして意外なものに出会うことができるようだ。そしてそのような経験・体験(「心験」?)を通じて、人間や世の中についても、また別な視野が広がってくるものだ。「自己との対話」が流行るようになれば、世の中の騒々しさも少しは穏やかになるのではないだろうか。

准教授 窪田 忍
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by bwukokusai | 2013-07-09 10:00 | 教員コラム