文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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2013年 02月 26日 ( 1 )

二つの「私」 ― 日本人に「私」はあるのか? ないのか?

 前回のコラムでは、「日本には『世間』はあるが『社会』は存在しない」という世間学の主張は、日本語のあり方からも裏付けられるという話をしました。
(「世間学と日本語」http://bwukokusai.exblog.jp/16553363/)
 その後、このテーマについて第28回日本世間学会でも研究発表しました(発表題目:「世間と日本語に通底するもの -主体性と第三者的視点の欠如-」)。

 発表はおかげ様で無事終わったのですが、発表の後の質疑応答で非常に考えさせられるコメントがありました。
 その要点を紹介しますと、「あなたは、日本人には『私』があると言っているのですか? ないと言っているのですか? 発表を聞いていると、そのどちらでもあるように思われます。言っていることが矛盾していませんか?」というものでした。

 発表した内容のうち、そのコメントに関連する部分は以下のようなものでした。
 
①「今度、結婚することになりました。」という言い方がある。日本語では、たとえ自分で積極的に決定したことでも成り行きで決まったような表現(自発表現)がよく用いられる。このように、「積極的な行為」、「主体性」というものを表に出すことが避けられるのは、それだけ、日本社会においては「主体性」が大切にされず、むしろ疎んじられていることと無関係ではないのではないか。なお、日本における「主体性」の位置づけに関しては、「~ことになる」の他の自発表現(「~と思われる」「~と考えられる」「見える」「聞こえる」)や敬語の成り立ちも参考になる。
②日本語で自然な文を作るためには「私」との関わりが表現される必要がある。「『私』との関わりの表現」とは、相手が「私」にとって上か下か親か疎かを表現する敬語がそうであり、相手との関係で「私」が「オレ」になったり「僕」になったり「わたくし」になったりする人称詞のバリエーションもそうだ。また、「あげる」と「くれる」の使い分けや受身による被害感情の表現もその一例だ。これらは、日本語研究の中で日本語における「自己中心性」を示す表現と呼ばれるものである。

 以上のような発表内容に対して、最初に紹介したコメントが出されたのでした。一方で、日本人は「主体性」に欠けると述べておいて、他方で「自己中心性」が強いとはどういうことか? いったい全体、「私」はあると言っているのか、ないと言っているのか?というわけです。

 このような疑問を受け、来る3月7日(木)に開催される第10回現代文化学部学内研究発表会で、日本語における「私」のあり方をめぐって考えてみたいと思っています。

 結論的なことをひとこと述べますと、日本語を通して言えるのは、「主体」としての「私」の存在感は希薄だが、「場所」としての「私」の存在感は濃厚に認められるということです。つまり、「私」にも二種類あるのであり、そこを押さえれば、日本語に見て取れる「主体性」の希薄さと「自己中心性」の強さとは決して矛盾するものではない、といった説明をする予定です。

                                                  教授 加藤 薫
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by bwukokusai | 2013-02-26 08:00 | 教員コラム