文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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2011年 06月 14日 ( 1 )

懸命な美しさ

 がんばっているところを人に見せるのは、かっこ悪いと思う人が増えている。たとえば、同級生の中で一番部活の練習をがんばっているのにレギュラーになれないなんてかっこ悪いから、練習は適当に流してみせる。失敗するとかっこ悪くて傷つくから、がんばるのはいや、という感じ。帰国子女だった学生が、中学時代の話をしてくれた。【掲載は了承済み】海外の学校ののりのまま、行事などでも元気に積極的に参加しようとしていたら、「なに、一人で意気込んじゃって」と、退屈顔や訳知り顔のクラスメート達にうっとうしそうにされてしまったとか。以後、彼女は気配を消すように、学校では消極的にふるまう他なかったらしい。
 
 大学講師になりたての頃、羽田に向かうモノレールから外を見ていて、工員達が作業服でラジオ体操に近いことをしていた光景が、その時私が学生たちに伝えたかったことと重なって、今でも妙に私の記憶に焼きついている。やる気のない動きでその時間を何となくやり過ごそうとしている男性たちの中に、一つ一つの動きに留意しながら、きびきびと動いている数人がいた。その顔形は遠すぎてよくわからないものの、見ていて素敵だな、と思えた。彼らは、きちんと自分の体調を整え、次のことに備えている様子だった。一見些細なことにも自分なりの工夫や積極性を示し、その時間を大切にしている姿は、かっこいいものだ。人は肯定的なもの言いの多い人に惹かれるものだ、とは心理学の分析であり、あなたが誰かに嫌われたければ、その人の前で何度も、「どうでもいい、面倒くさい、そんなことやったって、どうせ…」といった表現を並べればよい。

a0149405_15473187.gif  八重山ヒメボタルという小さな蛍を、見たことがあるだろうか?私の場合は、一昨年5月の初めの頃、石垣島で出会ったタクシーの運転手さんに、山の方に連れて行ってもらった。車中で「何千という蛍が飛び交って、本当に美しいです。きっと一生に残る思い出にしてもらえると思います。」と言われながら、私は頭の中で、蛍にまつわる遠い過去の思い出をたどっていた。当時近くで見られる蛍など未体験だった私は、椿山荘のディナーを締めくくる余興の「蛍の夕べ」の帰り際、自分の小さなバッグの中につかまえた蛍を入れてしまい、帰りの車中でも蛍の光を楽しめるものと夢想していた。当然の結果として、蛍は光を発してはくれなかった。「ほかの命を玩具にしてはいけない」と叱られて、涙を流して反省しながらも、車の中を舞う蛍の光の幻想は、まだ私の頭の中で愛らしく踊っていた。
 本当の蛍は、切ないほどに繊細だ。目指す地点に近づくと、石垣島のドライバーは、「ヘッドライトで、蛍が弱るから…」と、スモール・ランプだけで坂道を徐行した。八重山ヒメボタルの体長は6ミリほどで、てんとう虫のように小さく、光を点滅させるところが特徴的だ。車から降り立った私の服について光っていた蛍に、彼の携帯電話の光を当てて、その大きさを見せてくれたドライバーに、罪なことをさせてしまった、と今でも思っている。日没が漆黒の闇に転じていく間に繰り広げられる、30分ほどの光の舞。30分だけならば頑張れる、なんて言わないでほしい。蛍の半時間は、人の一生の幾年か?蛍二十日に、蝉三日。二十日も生きないと言う人も多い。もう私は、蛍を自分からつかまえたりはしない。その短い光の時間を、人間のそばで無駄に過ごさせたりはしたくないから。
 a0149405_15471468.gif「人の世ならば何年ものプロポーズ」と、ロマンティックにしめくくると誤解されそうだが、蛍の光のように美しくなくても、一生懸命は素敵だ、と私は思っている。一途であることや努力はかっこ悪いと思わずに、学生諸君も精一杯命の光を輝かしてほしい。回りの空気を読み過ぎて、同じ沈黙の闇に沈むのは、あまりにもったいない。他人に迷惑をかけない限り、一生懸命はかっこいい。

                                                                   
                                   教授 久保田 文

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by bwukokusai | 2011-06-14 15:49 | 教員コラム