文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

bwukokusai.exblog.jp
ブログトップ

2011年 05月 10日 ( 1 )

日本語とPTA -「主体性と公共性」の希薄さをめぐって―

 「お母さん、今日の晩ごはん何?」
 「だから、カレーよ。今朝、言ったでしょ。」

 こういった「だから」の使われ方に興味を覚え、学生時代から日本語の文法について考えている。「だから」のように、本来、因果的関係を表す接続詞が間投詞的に使われることは、欧米の言語はもとより、中国語やタイ語やモンゴル語にもないようである(韓国語にはある)。
 なぜ、日本語にはこのような用法があるのか? ずっと考えてきた。

 子どもが中学に入る時、母親の代わりに学校に出向くことになった。PTAの問題で家内が学校に行きづらくなってしまったためだ。学校に出向いているうちに、PTAには非常に大きな問題があることに気づかされた。本来任意加入であるはずなのに、実態としては、自動的・反強制的に会員にされ、さらにとても負担の重い役職を押し付けられるのだ。診断書を提出し重病であることを証明するか代役を見つけてこない限り、役職が「免除」されることはない。私が現役のPTA役員だったたった2年の間にも、一緒に仕事をした複数のお母さんが、PTAがらみで体調を崩している。
 PTAの「本家」アメリカにおいては、PTAはその法的な位置づけのとおり、任意加入である。組織率は3割程度と聞く。組織率が限りなく100パーセントに近い日本とは大違いだ。中国や台湾や韓国やタイの留学生にも聞いたところ、日本のような強制的で息苦しい組織はないようである。
 なぜ、日本社会には、このような組織が存在するのか? これが、ここ数年間ずっと気になっているテーマである。
 今のところの一応の結論は、日本社会は、「仲間内の団結」を大切にするあまり、個人の権利と社会的なルール(法律)をないがしろにしてしまうところがあり、そのことと、PTA問題は関係があるのではないかというものだ。

 ここで話は日本語に戻るが、日本社会において個人の権利(主体性)が軽く扱われがちなことと、人称詞の用法、尊敬語と謙譲語の成り立ち、自発表現の存在等に見てとれる「『主体』というものの存在感の希薄さ」とは無関係ではないように思われる。(この点については、前回担当のコラム<「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論 ― 主体=「創造主」不在の文化 ―>で触れた。http://bwukokusai.exblog.jp/11751237/)
 いっぽう、社会的なルールが軽く扱われがちな点に関しては、主語・目的語の頻繁な省略、「だから」の間投詞的な用法等に見てとれる「公共性の希薄さ」、すなわち、客観的・第三者的な表現内容の成立には無頓着で、内々の相手に伝わりさえすればそれでよしとする傾向が関わっているのではないかと考えている。

 なお、PTAの現役役員の時に非力ながらPTAの改革を試みた。その時の様子が川端裕人氏の『PTA再活用論 ―悩ましき現実を超えて』(中公新書ラクレ)に紹介されている。また、上記書籍のもとになっている『婦人公論』連載時の記事は、http://minnanopta.seesaa.net/article/83898731.htmlで読める。

                                                      准教授 加藤 薫
文化学園大学 現代文化学部 国際文化学科のHPはこちら
[PR]
by bwukokusai | 2011-05-10 02:33 | 教員コラム