文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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2010年 07月 06日 ( 1 )

江戸時代の旅のスピード

徳川家康が江戸幕府を開いたのは1603年でした。その2年前にはすでに東海道の宿駅制度を定めています。「東海道五十三次(つぎ)」として全部がそろうのはもっと後のことです。たとえば、箱根宿が設けられたのは16年後の1619年です。

二代将軍秀忠は、1604年、幕府直轄の五街道(東海道・中山道(なかせんどう)・日光道中・甲州道中・奥州道中)を改修するとともに、東海道・中山道・北陸道に里程標の「一里塚」を築かせています。1里(約3.9km)は36町(丁)、1町(約0.109km)は60間でした。1里は、成人男性の平均的な歩幅で1時間はかかる距離です。

「お江戸日本橋七つ立ち」という歌がありました。秀忠は、一里塚を設けるのにあたって各街道の基点を江戸の日本橋としました。そこから、1里ごとに道の両脇に土盛りして植樹させました。これが一里塚です。その責任者は大久保石見守長安という人でした長安は榎(えのき)を植えるように指示したといいますが、これは関東だけのようで関西ではもっぱら松が植えられたといいます。その目的は、もちろん目印が第一でしたが、旅人が休むための木陰をつくるためでもありました。

東海道五十三次とは日本橋から京都の三条大橋までのことを言いますが、それはどれぐらいの距離だったでしょうか。『旅行用心集』には、およその行程「合百二十四里半十五丁」(合わせて124里半5町)とあります。約486kmになります。そうしますと、ここから考えて、歩く旅であった江戸の旅のスピードはどのくらいであったのでしょうか。

『江戸生活事典』によれば、京都の手前の大津宿から江戸まで「個人の旅行者はこれ(大名行列の11日から12日)より少しく手間どって、十四五日を要したようである」(丸括弧内は筆者)とあり、かかった日数はこの程度でした。『旅行用心集』には大津宿から京都までは「三リ」とあるので、大津から江戸までは約474kmとなります。15日かかったとして1日32kmぐらいのスピードで旅したことになります。成人男子の1日平均は、歩きつめで約40kmといわれていますから、それからするとかなり遅いようです。これには、東海道には、宮宿(熱田)から桑名宿までの海上を行く「海上七里」や、大井川など多くの川を渡らなければならなかったことを考慮しなければならないでしょう。

その他の例も見てみましょう。『東海道中膝栗毛』という江戸時代の有名な紀行文学がありますが、その登場人物である弥次郎と北八が江戸を出て最初に泊まったのは戸塚の宿です。日本橋から品川宿まで2里、そこから河(川)崎宿まで2里半、そこから神奈川宿まで2里半、そこから程(保土)ヶ谷宿まで1里9町、さらに戸塚宿までは2里9町で、合計10.5里をその日のうちに進んでいます。江戸の旅は「七つ立ち」といって午前4時ごろに出発し、投宿するのは人相が判別できる夕方の5時ぐらいでしたから、12時間から13時間ぐらいで、約41kmを旅したことになります。時速3.4kmのかなりゆっくりしたスピードです。もちろん、その間に馬にも乗っていたり、茶屋で食事をしたりしてはいるのですが。
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参考資料:
『旅行用心集』(八隅蘆菴(ろあん) 1810年)
『江戸生活事典』(稲垣史生 青蛙書房 1959年)
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九 1802年)

                                                         講師 西村修一
文化女子大学 現代文化学部 国際文化学科のHPはこちら
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by bwukokusai | 2010-07-06 15:49 | 教員コラム