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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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期末試験とその対策(大学篇)

 学期末になると、どこの学校でもたいていがそうであるように、期末試験が行われます。私が学生であった頃も、この時期は確かに嫌なものでしたが、それは教員になってからも変わりません。もちろん、受験者から出題者へと立場が変わったのですが、やはり嫌なものは嫌なものです。見たくないものを見なければならないということもありますし、知りたくもないことを知ってしまうということがあるからです。
 学生の答案を見ながら、さまざまなことを感じさせられるとともに、またいろいろな疑問も湧いて来ます。個別の学生については、その筆遣いや文章の組み立て方から、その学生の際立った特徴・個性・性格を知ることもあれば、受験した学生全体に見られる共通の気質というか傾向を見て取れることもあります。その多くのことが、自分にとっての新たな思考課題として現れてきます。

 期末試験。
 卒業の単位を懸けた大勝負。
 出題者の鋭い攻撃に対して、これ迎え撃つ受験者。
 「はじめ」の掛け声とともに、試験場は静かな修羅場と化し・・・・・・
 学生の鋭利なペン捌きは、舞うが如く、踊るが如く、徐々に本丸へと迫っていく・・・・・・
 落城が先か、制限時間が先か。
 ふと脇を見遣れれば、途中で力尽きて果てた学友の無念の形相と死屍累々・・・・・・

 出題者としては、このような時代劇めいたことは、想像・想定してはおりません。学生に対する要求は、講義を通して知り、自分の思考を通じて理解したこと、そしてそれをもとに自分の言葉で自分の見解を述べること、ただそれだけの淡々としたことにすぎません。
 しかし、時おり、鉄火場に臨むような形相で試験場に現れる学生もいます。試験を一種の博打と捉えられても困ります。また、流行のゲーム感覚で設問を「倒すべき敵」と見なし、ポイント稼ぎに熱中されても困ります。
 出題者としては、特に学生を困らせてやろうなどの意地悪な動機で問題を作っているつもりはありません。試験の目的は、学生の理解はどの程度の広さと深さを持っているか、全体像を捉えているか、各部分と全体との関係および構造を理解しているか、等々を知ることにあるのですから、些末なことをもって「罠」を仕掛けるようなことはさらさら考えてはおりません。ですから、「途中で力尽きて果てた」学生の答案は見たくありませんし、「死屍累々」となった答案用紙の山も見たくはありません。
 試験の準備や対策は、ノート(ちゃんと取れていればよいのですが)を暗記して、それを答案用紙の上に吐き出せばOKなんでしょ、とまったく勘違いをしている学生も結構いるようで、無闇矢鱈と飲み込んだものですから、飲み込んだものそれ自体がもともと体質に合わなかったのか、あるいはあまりにも急に一気飲みしたがために消化不良をおこしてしまい、出て来たものは見事な吐瀉物(つまり「ゲロ」)で、グジャグジャですから見るに堪えません。時にはどこで間違えて飲み込んだのか、まったく関係のないものまで混じったりしています。また、一文一文はほぼまともな日本語になってはいますが、前後の脈絡がないので筋道が立っておらず、一体何が言いたいのか、「言語明瞭、意味不明」と言ったものに出くわすこともあります。
 拙い表現ではあっても、筋道だって展開され、自分の言葉で自分の見解を述べることは、やっつけ仕事ではできません。まずは論理的に理解することが肝腎なのです。そして自分では理解したと思っていることを、あらためて自分の言葉で表現してみようとすると、その時にはじめて本当に自分はどの程度理解しているかを知ることができます。論理的に、つまり筋道立てて理解し、そしてそれをいったん自分の中におさめ、それから自分の言葉と表現でその理解したと思っていることを再現することで、はじめて自分の理解度を再認識できるのだと思います。その際の再現する営みが、自ら経験することの意味を持ちますから、そこでやっと他人から学んだもののものが自分の血肉に転化することになります。
 ただ学ぶこと覚えることとそれを本当に自分の血肉にまでにすること、そこには大きな差があるように思います。ただ学んだり覚えたりしただけでは、それがどれほど自分のものになっているかは分かりません。

 試験に期待しているもの、それは少なからぬ学生にとっては、その最大の関心事が、合格か不合格か、点数をどれほどとれたかにあることは、こちらも先刻承知なのですが、しかし私が関心を向けているのは、それぞれの学生がどれほどの知性を持っているか、知性の伸びしろをもっているかにあります。そして、その知性をどのようにすればもっと豊かなものにしていけるのかを考えることです。(知性についての話は、また別の機会に)

 大学での学びをどのようなものとして自分の中に位置づけているのか、学ぼうとする側もそしてその手助けをしようとする教員の側も、試験を通じて考えていくことも大切な課題だと思います。 
 
准教授 窪田 忍
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by bwukokusai | 2014-07-29 10:00 | 教員コラム