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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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「風立ちぬ」

将来とは、恐れという患いによる私たちの現在です。また、過去とは、罪責の記憶による現在です。私たちは確かに現在に生きております。しかし、その現在とは、恐れにより暗くされた現在であり、罪責により暗くされた現在です。私たちは将来と過去に生き、現在に生きていません。現在を生き生きと生きることを「現在する」と言うならば、私たちは現在していません。「私たちは本当に自分の現在を享受することができないのです。」(E.ブルンナー)私たちは自分が責任のある存在であることを自覚すればするほど、従って人間であろうとすればするほど、自分の義により、自分と他者を責め、自分の現在を享受できないでいます。絶えずあれやこれやのことを思い患い、それにより現在が破壊されてしまっています。罪責は個人の生を越え過去のどこまでも遡及する。また恐れも個人の生を越え歴史の果てまでも続く。罪責により暗くされたどうにも取り返しのつかない償いようのない過去と、杞憂として嘲笑されるどうにも手の打ちようもない将来に心が奪われてしまっているのです。将来と過去とに拘束された牢獄の中におり、現在していない。そのゆえに、今現在すぐ隣にいる人を愛さない。生きながら死んでいる状態です。死んではいないが生きてもいない。生殺しにされている状態です。私たちはまさに「死に至る病」(キルケゴール)、つまり絶望の内にあります。そして、その絶望の中でも自分の力により何とかしようとしています。

人間性を犠牲にし、自らの良心を殺し、あれやこれやによって「気晴らし」(ハイデッガー)をすることによってのみ、日々を享受しようとします。しかし、私たちは良心というものを本来的に備えている存在者です。忘却は私たちに与えられた最もありがたい資質です。しかし、気晴らしという忘却というやり方では、何の解決にもならないことはすぐにわかります。私たちの本来性から私たちは仕返しを受けるのです。また、罪責の大本であると考えられた「明治の精神」(漱石)を、我もろとも打ち滅ぼすことにより、そこから解放されるなどということも到底不可能です。熱狂を呼び起こすいかなる麗しき事柄(真・善・美・信・望・愛・快)も決してこの絶望から私たちを解放してくれません。

唯一私たちをこの絶望から救ってくれるのは、「風」です。それによって、生きようという決意が呼び起されるのです。堀辰雄は『風立ちぬ』の冒頭に、P.ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の“Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”という一節を引用し、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳しました。lèveの後の「,」を彼は「、」と訳しました。また「いざ」という決意にも拘らず、「やも」という躊躇が入り込んでいます。それは私たちの実際の意識に近いとしても、この点が誤訳と言われるゆえんです。鈴木信太郎氏が使用した版では原文はLe vent se lève !… Il faut tenter de vivre !であり、氏は「風 吹き起る…… 生きねばならぬ。」(『ヴァレリー詩集』岩波文庫、1991年、242ページ)と訳しました。「,」においても、「!…」においても、非連続の連続が表現されております。しかし、「!…」においてより一層非連続性が強調され、無が現されています。「風」は生きることを命じる。ゆえにヴァレリーの「!」は見事です。「風」は私たちの絶望を完全に断ち切る。その意味で「…」さえないほうがよい。関根正雄はヘブライ語の「ルーアㇵ(風、息)」を「霊風」と訳したことがあります。「風」が自分を完全に無化し、殺すものでないとしたならば、絶望からの解放はありません。

この「風」はどこから吹き立つのでしょうか。

教授 木村清次


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by bwukokusai | 2014-01-14 16:00 | 教員コラム