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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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言うことを「聞く」のか?「聴く」のか?

 ・「しんのすけ! 言うこと“き”きなさい!!」(母親ミサエの毎度の咆哮)
 ・「カエルの歌が“き”こえて来るよ、.....」
 ・「ねぇねぇ、“き”いて“き”いて。きのうさぁ.......。あいつ.....じゃねぇ?」
 ・「私の言うこと、ちっとも“き”いてくれない。きっと私のこと、愛してくれてないのね!」(男はこういうセリフを“き”くと、反射的に「コイツ、莫迦だな」と思ってしまう。逆の場合もまた同じかもしれませんが....。女心はよくわかりません。)
 ・A「皆の意見を“き”いて決めればいいじゃないか。なぜ俺の意見は“き”けないんだ!」
  B「あんたの意見は何度ももちゃんと“き”いたよ。でもねぇ......。やっぱり却下!」
 
 
 

 「きく」とは、その基本は音や声が耳の鼓膜に達して、その刺激を脳が感知すること、とでも言えそうです。そこまで細かく解説しなくても、「きく」ことはやはり「耳」と大いに関係しています。しかし、先に挙げた例文からは、ただ単に音や声が耳に達し、脳が感知するという理解だけでは済まないものがあります。
 そこで日本語の得意技である漢字を利用して、この問題にちょっとだけ迫ってみましょう。

 「きく」に当てられる漢字には、聞く・聴く・効く・利く・訊く等々がありますが、ここでは「よく“効く”薬」「気が“利く”娘」「“訊か”れたことに答える」の3つは、場違いなので脇に置いて話を進めます。そうすると、残ったのはやはり“耳”の字を含んでいる「聞く」と「聴く」です。
 では、「聞」と「聴」とは同じこと、あるいはおおよそ似たような意味なのでしょうか?

 確かに、こんにちでは「聞」も「聴」も適当に使われているような感じがします。強いて言えば、「聴」の方が注意して、耳を傾けて、音や声を「きく」ことだ、といった具合でしょう。
 しかし、このちょっとした相違に、実はもともとあった大きな、あるいは「聞と聴とは、最初の頃はまったく反対の意味で使われていた」とでも言ってよいような痕跡が残っているのです。 

 聞:モン/ブン:きく;wen2、wen4(注: “ローマ字 +数字”は現代中国語での“読み+声調”)。 
 聴(聽):チョウ(チャウ)/テイ;きく;ting1、ting4(同上)。
 
 

 漢字の場合、その発音が似ているとか、あるいは同じ系統にある際には、往々にして意味の上でもイメージが繋がっていることがよくあるのですが、「聞・聴」は、まったく別ものです。ということは、たとえ“耳”つながりではあっても、最初の頃違った意味を持っていたのではないか、という疑問が浮かんできます。「捜査に行き詰まったら、原点に返れ」と言ったのは、シャーロック・ホームズなのか明智小五郎なのか、それとも....。横道にそれずに、今はこの言葉に乗っかって、「原点/原典」を訪ねてみましょう。一気に約2,500〜3,000年前まで、そう、孔子様を飛び越して、更にもっと昔へ。

 「書」という名前の書物があります。2,500〜3,000年前ころの当時のことが、当時の言葉でリアルタイムに記録されているものだとして、今日まで伝承されてきた書物です。「書」とは“記録”というほどの意味です。また、これは大昔の記録だということで、「尚書」とも呼ばれます。“尚”=上(時間的に“上”、つまり川上というときのあの“上”)=昔の書(記録)ということです。後に儒家がそれを自派の経典に取り入れて独占し、「五経」の一つとなってからは「書経」とも呼ばれるようになりました。内容は主に古代の聖王たちの言行録です。
 もちろん、孔子様を開祖に仰ぐ儒家の手によって書物の形になる以前に失われてしまった部分もたくさんあるようですし、また失われたところを適当に補ってみたり、さらにはただ聖王の名前を借りてきただけで、内容は後の人の手によるまったくの“創作”というものも含まれています。それでも「書」の中に使われている単語や文体などの研究を通して、ほぼ古代の記録そのもの(本物)であろう、と評価・判別されている部分があります。ある程度まとまった文章で、文字の用法がよく確定できるものは、いまのところ、この「尚書」が一番古いものです。
 前置きが長くなってしまいましたが、いよいよ本題に入ります。

 この尚書の中の“確かだ”とされているところでの用例を調べると、次のようなことがわかります。
 聴(聽):最高神である“天”の命令・意思(声なき声)に「きき従う」こと。また、この“天”の命令を受けた王(天子)の命令に「きき従う」こと。つまり、絶対的に正しい者の命令を感知して、それに服従すること。ここには「上位・絶対者 → 下位・服従者」という上から下への方向(下降の縦方向)が見て取れます。(少し話がそれますが、聴(聴)・聖・徳(悳)は一連の関係を持つ字で、天の命令・意思を理解できる者(天の声なき声を正しく“聴く”能力を持つ者)が“聖”。天の命令・意思に合致する行為が“徳”。そして役所は“庁/廳”です。)

 聞:①“天”が、人々の願いや希望の内容を知ること(必ずしもその願望を成就させてやる義務は負っていない)。ここでは「下位・服従者 → 上位・絶対者」という下から上への方向(上昇の縦方向)が示されています。

 聞:② 自然物の声や音が耳に入ること。ここでは上位と下位の違いは示されておらず、横の方向性(水平の横方向)が見られます。
 
 さて、「聴」と「聞」のもともとの意味がわかったところで、これを冒頭であげた例文に当てはめてみましょう。そうすると話し手や「きき」手の立場や態度、心の中の思いが、その言葉の物腰以上にはっきりとしてはきませんか。

 ・ミサエは“しんのすけ”に対して絶対者として振る舞っており、自分の命令は絶対に正しいと確信して「聴け」と絶叫しているが、それに対して“しんちゃん”は得意の揚げ足取りでミサエの絶対性をぶち壊す。「それって、大人の都合なんじゃな〜い?」
 ・カエルの歌は、自然物の音声ですから横方向に「聞こえ」てきますよね
 ・おしゃべりの類いも、所詮はカエルの歌と同様に横方向に「聞こえ」てきます。
 ・わがまま勝手なことを一々「聴い」てられますかって。お前を崇め奉ることが愛の証か?!
 ・A:俺はA様だぞ!皆の意見を“聞い”たとしても、俺様の意見だけは特に「聴け」!
  B:お前マトモか?相当おかしいんじゃねぇのか?お前の話はちゃんと「聞い」たけど、自分のメンツと都合だけじゃねぇか。「聴か」なきゃならぬほどの中身は、これっぽっちもねぇじゃねぇか!

 と、まぁ、あからさまな状況が、くっきりと浮かび上がって参ります。「聞く」とか「聴く」とか、敢えて「賢しらの唐心(さかしらのからごころ)」を持ち出さない方が、そしてただただ「きく」と「ひらがな」で押さえておくだけの方が、角が立たずに、角を立てずに丸く流して行けるのでしょうけれど....。言葉の真意をつかむには、やはりそれなりの学問と勇気とが必要なのかもしれません。

准教授 窪田 忍

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by bwukokusai | 2013-02-14 10:53 | 教員コラム