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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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尖閣諸島問題をきっかけに

 近頃「尖閣諸島の問題」が脚光を浴びています。これが他人事や地球の裏側の事でしたら、「そんな難しい事なんかワカンナ〜イ」と単純無知(不偏不党の善良な中立者のつもりで?)の傍観者を決め込んで、あっけらかんと静観していれば済むのかも知れませんが、今度ばかりはどうもそうは問屋が卸してくれそうもないのが「現実」というものです。
 この問題については、日本でまともな民主制を機能させて行くためにも、国民の一人として関心を持ち、よく知り良く考え、自分なりの見解や意見を持つことが必要です。
 中国と浅くはない関連を持ち、また関連科目の授業や講義を担当している者として、やはりここで幾つかのことを述べておくことは必要ではないかと思っています。           
 このブログの性格上、この尖閣諸島を巡る問題についての筆者の個人的な見解や判断を披露するのは相応しくないと思いますので(もし読者からの強い要望があれば、その時にまた態度を決めることにして)、ここでは少し焦点を外しながらも、気がついた幾つかのことを書いてみようと思います。

 中国での反日デモや暴動、暴行、破壊行為などなど、日本のマスコミは、中国の異常ともいえる反応に随分と驚かされると報道しています。多分、良識を持った日本人一般の目から見ても、その異常さに非常に大きな違和感を覚えるのは当然です。
 しかし、中国の事情を軸にして見ると、こういう風に故意に大騒ぎをするのは、全く“必要”なことであり、全く当然なことであり、むしろまだ相当に「自制しているのだ!」、と感じられます。
 つまり、日本側からは極めて「異常」、中国側からは「必要」「当然」。共通しているのは、双方とも“冷静”だ、という点です。ある種の“冷静”でもってあれだけの大騒ぎができるところに中国の中国たる特徴が出ていますが、その辺の構造や思惟方法が「なるほどね、そういうことなんだ」と判るようになれば、中国理解も相当に深まったと言えるでしょう。
 筆者の受け持つ中国・アジア関連の授業や講義では、その方向は一般に流布している通説や俗説を学問的批判(その基になっている資料や論理を再検証すること)を通して、より確実なものを求めようとすることにあります。ですから、単に結論や結果だけを知識として覚え、それを試験の答案用紙やレポート上に吐き出せば点数が取れるというものではありません。この学問的批判力がどの程度身についているかが評価の主対象です。中国やアジア(当然に日本を含めて)をより深く理解する能力を育てることが目標であり、日中“友好”などの政治的な目的のためのものではありません。教員として学生に願うことは、将来的には、知識を生かすこと以上に能力を生かすことに力を注いでほしい、ということです。

 さて、尖閣諸島の問題は、中国の諸事情から見れば、南シナ海での東南アジア諸国との間で紛争を起こしている問題の性質と同様に、既に海底石油・天然ガス資源問題や漁業・海洋資源レベルの問題を通り越して、中国にとっての“安全保障(=軍事的必要性)”の問題になっているようです。つまり、領土・領海的なことと公海上であっても勢力圏の問題になっているようです。
 なぜ? それは中国の事情によるものです。昔からあった中国の領土領海と勢力圏が、近代になって欧米や日本によって不当に奪い取られ、盗み取られており、国力が充実して来た現在、長年の懸案だったそれらの領土領海・勢力圏を取り戻すという至極当たり前の権利を行使するのだから、関係諸国は謙虚になって正義に目覚めるのが当然です、ということらしいです。
 関係諸国から見れば、それは中国の不当な対外拡張・膨張だ、ということになりますが....。
 
 これに関してちょっと思いついたことがあります。かなり荒っぽい表現になりますが、大筋を捉えるため、ということでご理解ください。
 歴史を振り返って見れば、イスラムの発展は真主(アッラー)の正義地上に実現するためのもので、真主は全世界の人々を正しき道に導く存在です。ですから、これには普遍的な全人類的なアッラーの正義の実現という大義名分があります。ヨーロッパ中世の十字軍は、もうじき最後の審判の日がやってくるという強迫観念を背景に、神の意志である地上の浄化(異教徒の撲滅と改宗)を目指すものです。神は全世界の人々を正しき道に導く存在です。ですから、これには全人類的な神の正義の実現という大義名分があります。かつての大英帝国の対外拡張は、“自由貿易”で世界中の物流を良くし、人々を豊かにする、という大義名分がありました。それは同時に近代科学技術を伴うものとなり、植民地化は同時に統治の文明開化をもたらすものであり、世界中の人々を文明化させる義務を履行するという大義名分がありました。共産主義の拡張は、真の自由と平等と各自の能力の無限の発展を保証することを通じて世界に永遠の平和をもたらすことを大義名分としました。ですから、これは全人類的な課題です。USAは、その特殊な建国の理念を背景に、全人類に自由と民主主義をもたらすことが使命であると自認し、それを大義名分として今日も日々努力をしています。かつての大日本帝国は、欧米列強によるアジアの植民地化に抵抗し、アジアはアジア人のものであるはずということから、全アジアの独立・自立と団結、近代化を大義名分に、大東亜共栄圏と言うアジア人共通の課題を掲げました。
 このように、いずれも大義名分が広範囲の人類の“幸福”を標榜しました。勿論、大義名分がすべてその言葉通りに実現された訳ではありませんが、少なくとも、全人類もしくは広範囲の人々の“幸福”に目を向けていたとはいえるでしょう。
 では、近年の中国の“対外伸張・拡張”は、どんな全人類的あるいは広範な人々の“幸福を”実現しようという大義名分を掲げているのでしょうか?
 上述したそれぞれの大義名分には、それなりに「自分と他人との幸福を同時に考える」と言う動機があり、それなりに“幸福とは何か”、人類にとっての“正義と義務とは何か”、という探求が伴っています。では、今日の中国では、どのような“幸福”と“正義”と“義務”とが探求されているのでしょうか。
 この機会に、読者の方々がこの問いに思索を巡らすことを期待します。

准教授 窪田 忍

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by bwukokusai | 2012-10-16 10:52 | 教員コラム