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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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アウシュヴィッツ ― Ⅱ ―

                              一

 
 12時の時を告げたビルケナウのこの教会は、アウシュヴィッツ収容所長であるルードルフ・ヘスが指揮を執った場所である。そこはアウシュヴィッツ・ビルケナウ・モノヴィッツ基幹収容所と40以上あった副収容所すべてを統括した司令部であった。彼は冷酷無比な狂人ではない。教養も洞察力もあり、「潔癖さ・正義感」さえも備えた、また、家族に対する愛情も豊かな父であり夫であった。ガス室に押し込まれドアが閉められる瞬間、自分の子供たちを部屋から押し出そうとする母親の叫び声を彼は記録に残している。「せめて、せめて、子供たちだけは、生かしてやって!」。彼は与えられた任務には実に忠実であり、それを果たしてゆく決断力もある人間であった。つまり、どこにでもいる類の「普通」の人間なのである。彼は彼なりに「人間らしい感情」を持ち、「心を引き裂かれるような思い」をし、「心の底の焼けるような苦痛」に耐えながらも、祖国の未来のために励まなければならない、と思っていたのである。
 では、どうして彼は歴史の中で類を見ないほどの大量殺戮を犯したのであろうか。それは権威への盲従であり、自らの信念というものに対する批判の欠如である。彼の同僚であり、しばしば彼の手記にも登場するルドルフ・アイヒマンにおいても同様である。アイヒマンは、数百万人のユダヤ人を各地の強制収容所へ移送する任務で中心的役割を担った人間である。ヘスはアイヒマンとは「ユダヤ人問題の最終的解決」については何度も突っ込んで話し合う間柄であったようだ。アイヒマンの名前は、人間の権威服従受容度(かつて「北朝鮮度」とマスコミで言われたこともあった)を明らかにするために行われたかのミルグラム実験の別称として使われた。しかし、それは適切ではないであろう。ヘスは、かの「最終的解決」についてアイヒマンの本心を聞き出そうとあらゆる手を尽くした、と述べている。「しかし、滅茶苦茶に酔っぱらった時でも―もちろん、我々二人だけで―アイヒマンはまるで憑かれたように、手の届く限りのユダヤ人を一人残らず抹殺せよ、とまくし立てるのだった。仮借なく、氷のような冷酷さで、できるだけ早くこの虐殺を遂行しなければならぬ」(片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』)。そのようなアイヒマンのナチスの理想に対する忠実さを前にして、ヘスは自分の「人間的な優しさ」を「障害」のように思った、ということである。アイヒマンがあれほど熱烈に語ったのは、ヘスが感じていたものと同様の人間としての自分の苦悩を打ち殺し、自分を納得させるため、という側面もあったであろう。それほど彼は「ナチスの大物」逃亡者ではなく、どこにでもいるような「俗物」役人なのである。このような分析のゆえに、ハンナ・アーレントは同胞ユダヤ人から激しく非難されたのであった。アイヒマンは、1961年エルサレムでの裁判において彼が弁明したような、「命令に従っただけ」ではないのだ。彼は自ら信じようとし、信じ、確信を持って自らの使命を、自らの任務を遂行したのである。およそ「不屈の信念」ほど危なっかしいものはないのではないのか。権威への依存による正義で保身を図ろうとする「大樹の陰」意識。権威は途方もない力とともに押し迫って来、心の奥深くに受肉する。また同時に、人間の根底にある奴隷意識は大樹にすり寄り、権威が受肉することを願い、刷り込まれることを願っているのだ。

                              二

 1980年代後半、ドイツで分野を異にする多くの知識人によって「歴史家論争」がなされた。アウシュヴィッツを生み出したメンタリティーを普遍化することは、ナチスの犯罪を多少なりとも相対化・平板化するものとして、激しい批判を浴びた。しかし、私たちは誰でもがヘスであり、アイヒマンであるのではないのか。組織的大量殺戮アウシュヴィッツは、古代の辺境の蛮族によってなされたものではない。それは今のこの時代に直接接続する、たった70年前、理性の深い伝統を持つドイツでなされたものである。歴史は良い方向に進化しており、かのような悲惨は今後生じることはあるまい、などと思うとしたら、それは夢想である。宮田光雄氏の言う如く「アウシュヴィッツで生じたことは今後の世界において起こりえないという保証はない」。今、どこにでもますます大規模に大量殺戮が生じる可能性が高まっているのではないのか。アウシュヴィッツという悲惨は、アウシュヴィッツを繰り返さないことによってのみ意味を持つのである。
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 凡俗なアイヒマンにしても、生真面目で、ある種の「正義感」さえ持ち合わせているヘスにしても全く凡庸な人間である。アーレントの言う如く、このよう平凡(バナール)な大衆によって組織的巨大悪が遂行された。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)。現代は、人間の良心や理性、その成果である文化・文明といったものがもはや信頼できない時代である。

教授  木村 清次

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by bwukokusai | 2012-08-14 10:00 | 教員コラム