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文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

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アウシュヴィッツ ― Ⅰ ―

 
                             一

 およそ40度はあろうかと思われる灼熱の太陽に焼かれながら、「これがナチズムか、人間の憎悪はここまで行き着くものなのか」、と思った。この場に立って実感できる歴史というものがある。
 ずっと先の林に続く道には日差しを遮るものは全くない。左側には見渡す限りの草原(くさはら)。そして、一見何かと思える赤レンガ造りの朽ち果てた、しかしなお崩れてなるものかとそそり立つ煙突。無数に林立する。先ほど内部を見た男性用棟がおよそ20棟程彼方に見える。そのさらに向こうには当時SS(ナチス親衛隊)中央衛兵所として使われ、現在はここの入場門となっている通称「死の門」が見える。この門は映画『シンドラーのリスト』にもたびたび映し出される例の門である。鉄道の引き込み線がその門を通り、この収容所の中深くずっと入り込み、右側はるかかなたに見える今も破壊された当時のままに放置されているクレマトリウム(ガス室付死体焼却炉)まで伸びている。一昨日私はすでに一度ここを訪れている。ここは、アウシュヴィッツⅡと当時呼ばれた「ビルケナウ収容所」、まさに「絶滅収容所」である。アウシュヴィッツの3キロ西ブジェジンカ村に、この収容所は「ユダヤ人問題の最終的解決」のために建設された。当時沼地であったこの村はずれの地から数軒の村人を退去させ、日々数千人単位で移送されてくるユダヤ人・政治犯・ロマ・障害者等を「処分」するために、アウシュヴィッツの7倍の広さの収容所が建設されたのであった。
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 ここではおよそ20棟から40棟ほどのバラックが1区域とされ、隔離するために2重の有刺鉄線が張り巡らされていた。その380ボルトの高圧電流が当時流れていた鉄条網は、それを支える柱とともに今は所々破れ途切れしてはいるが、なおしぶとく各区域を分断し、延々と続いている。20棟ほどの内部が公開されている木造バラックが「死の門」の手前に立っている。それ以外の棟が土台と暖炉の細長い煙突のみを残し、跡形もなく崩壊していることから、それらの棟が再建されたものであることがわかる。当時そこはBⅡ区域aと呼ばれたバラック群である。先ほどその内部を見た。まさに家畜小屋である。
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 夏場は今日のように40度はあるのではないかと思われる灼熱の太陽の下で、冬はマイナス20度にもなる東ヨーロッパ内陸の極寒の中で、死の恐怖と飢えに耐え、収容者たちは強制労働に服したのである。木造バラックの下部、土台との間にある隙間からは容赦なく真冬の寒風が吹きこみ、多くの収容者を凍死させた。藁を敷いただけの木造の3段ベッドは人間の眠る所としてはあまりに悲しく惨め(みじめ)だ。トイレ棟は20棟当たり1棟が別棟として割り当てられている。棟の端から端まで続くコンクリート台に2列の丸穴が開けられているだけのトイレである。

                              二

 20棟のバラックを左に見ながらBⅢ区域との間の大路を奥へと進む。はるか前方左の林の中に、焼却した収容者の灰を投げ入れた池があるはずであるが、ここからまだ見えない。その池の道を挟んだ向かい側には死者たちを野焼きにしたという場所があるはずである。そこはあの林の向こうであろう。スペイン人の男女とすれちがった。目が合い会釈をした。彼らも沈痛な面持ちである。右側には当時BⅢ区域と呼ばれた広大な空地が広がっている。ヨーロッパ各地から日々送られてくるユダヤ人を収容するための施設を拡張すべく計画が立てられたのであるが、結局敗戦に至りそれは実現しなかった。その場所が空地としてそのまま残っているのである。そのうえ、BⅢ区域と同じ広さのBⅣ区域がさらに隣接地に計画されていたようである。BⅡ区域とほぼ同じ面積のBⅢ区域にはバラックも、暖炉の残骸も一切ない。ただ夏草の生い茂る原野である。その向こうには普通の民家が数軒見える。
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 突然背後から鐘楼の音がした。正午の時を告げる教会の鐘である。今日は8月15日、日本敗戦の日だ。ここポーランドと日本とは時差7時間であるから、かの戦争の犠牲者に対する黙祷は日本ではすでに終っているであろう。その教会はかつて司令部として使われていた建物である。先ほど訪れ、見た限りでは、それほど古い建造物には思えなかった。修復して教会にしたものであろう。すでに一昨日私はこのビルケナウを訪れている。ポーランドの古都クラコフからバスで1時間半。ドイツ思想の研究者としてアウシュヴィッツを必ず訪れなければならない、とかねて思っていた。3日前早朝ウィーンを発ち、7時間かけクラコフに入った。ホテルに荷物を置き、すぐにユダヤ人街を訪れた。クラコフのユダヤ人街カジミエーシュ地区は、かつてヨーロッパ最大級のユダヤ人街といわれ、『シンドラーのリスト』の舞台にもなった。当時のゲットーを外部から隔てる壁は完全に取り払われており、ホテルとレストランに囲まれ中央市場広場は、夕刻ヴァイオリンの音色と歌声にあふれ、酔客で賑っていた。またこの街の子供か、訪問者の子供かよくわからないが、夕闇の中彼らはそこかしこで戯れていた。俗物シンドラーが一転ユダヤ人の救済に命を懸けるようになったきっかけは赤い服を着た少女の死であった。
 一昨日アウシュヴィッツで見た、犠牲になった子供たちの山積みされた靴・衣服・玩具が思い出される。それらを購入するに際しては、母親と子供たちとの間で今と変わることのないたあいない、しかし優しさに溢れた様々な日常的なやり取りがあったことであろう。小さな靴やスカートはそれ独自のかけがえのない歴史を持ち、また同時に実現しなかった多くの願いを想起させる。初期には送致された収容者全員の顔写真が撮影された。壁一面に張られたそれらの中には、不安な面持ちの幼気(いたいけ)な子供たちを写したものが数多くあった。
 10号棟を陰鬱な気持ちで出ると、その出口の階段に、4人の年配のドイツ人が茫然として立っていた。10号棟は「死のブロック」と呼ばれた11号棟の手前にある。1人の夫人が声を立てて泣いており、その傍らで彼女の夫らしき男性が肩に手を置き、彼女を慰めていた。10号棟は囚人を使った人体実験棟である。当時、生体を使用しての様々な人体実験手術がこの棟内で頻繁に行われ、その際に使用されたベッドや手術道具、写真等が公開されていたのであった。この4人のドイツ人はそれらを見た後なのであろう。70歳は超えているであろう恰幅の良い善良そうなその夫人は、「どうしてドイツ人はこんな酷いことをしたの。どうしてこんな酷いことができたの」と言いながら、目にハンカチを当てていた。愛する自分の祖国を誇りたくても誇ることを決して許さない罪、どうにも弁解の余地のない罪を突き付けられたのである。
 私たちは自民族の過去から多くの遺産を相続している。「人は自分の罪のゆえに死ぬ。誰でも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」と、エレミアは個の責任を明確にした。そこに、倫理的に言うならば、いかなるものにも依存しない独立した良心を見ることができよう。しかし、同時に「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」事実も間違いなく存在する。罪の必然的結果である罰が世代を超えて伝達するのである。子孫は自らが「犯した」のではない、従って、自分の「責任」ではない罪悪のつけを支払わされることになろう、まるで今日の日本の年金制度の如く。
 私たちは過去と未来の一切の責任を負い、時間を越え、今ここに立っている。私たちは生まれる前の祖先の罪について謝罪すべきだろうか、という問いに対し、「謝罪すべきである」、と答えよう。1985年ヴァイツゼッカードイツ大統領終戦40周年記念演説「荒れ野の40年」以降、よく若者が「父祖たちの罪悪は私が犯したものではありませんから、私には罪はありません。しかし、これから生きる人間として、未来には責任があります」と言う。「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なもの」という大統領の見解に依拠したものであろう。果たして本当にそうなのか。自分の「自由」に基づくものではない過去に、倫理の立場からは一切責任はない、と言えよう。しかし、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております」とするならば、それは罪悪の集団性をも認めたことになろう。

教授 木村 清次

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by bwukokusai | 2012-08-07 13:09 | 教員コラム