「ほっ」と。キャンペーン

文化学園大学 国際文化・観光学科ブログ“小平の風”

bwukokusai.exblog.jp
ブログトップ

「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論-主体=「創造主」不在の文化-

オギュスタン・ベルクというフランス人の日本学者がいます。氏の『空間の日本文化』(ちくま学芸文庫)と『風土の日本』(同)は、日本文化の特質について、日本語の具体的な用法も押さえながら切り込んでいて、日本語と日本文化の関わりに興味を持っている私にとってとても示唆に富む本です。かなり読むのに骨の折れる本ではありますが…。

今日は、『空間の日本文化』の中で紹介されている、ベルク氏が日本語を学び始めて間もなくのころのエピソードからご紹介したいと思います。

それは、戦争映画の一シーンの中で出てきた日本語だとのことですが、その日本語に氏はとてもとまどってしまったと言うのです。
危険が迫ってきたのに持ち場を離れようとしない看護婦がいて、医者が理由を尋ねたそうです。すると、その看護婦は、しばらく黙っていたが、意を決し、目をそむけたまま、

「好きです。」

と言ったそうです。
字幕は、
Je vous aime.
字幕のフランス語は、「主語=私は、動詞=愛している、目的語=あなたを」で、≪SVO≫がそろっています(倒置はあり)。

それに対して、日本語のほうはどうでしょうか?
ベルク氏は、以下のように述べます。
***
ところが日本語の文章には、代名詞もなければ語尾変化もなく、誰が誰を愛しているかを示しうるような主語、目的語はいっさいない。おまけに、女性が問題の男性のほうを見ているわけでもない。この文章は、その場面のどこかに、ある種の愛の感情が存在していること以外、なにも示していなかったのである。(p.31~32)  太字:引用者
***

ここでベルク氏のとまどいに対するいわば日本語側の弁明として予想されるのは、「日本語は言わなくても相手に通じることは言わないで済ますのだ」という解釈だと思われます。しかしよく考えてみると、我々は上下関係が誰の目にも明らかな場合でも敬語を省略することはありません。また、受益感情を表す「~てもらう」、「~てくれる」などの表現が言わなくてもわかるからと言って省略されることもありません。
このように考えると、欧米の言語においては、「誰が」→「誰を」といった、主体の客体に対する働きかけをはっきりさせることに大きな拘りを持つのに対して、日本語はそのような拘りが弱いのだと言えそうです(いっぽう日本語は対人的な配慮にはとても強い拘りを持つ)。

同書では、日本においては<主体>に対する意識が希薄であることについて、人称詞の特異な用いられ方(人称が相手との関係でころころ変わる)をはじめ、二重主語構文(「私はあなたが好きです」)、「~と考えられる」・「~ように思える」などの自然発生表現、さらには、尊敬語と謙譲語の作られ方の違い(自然発生に関わる「なる」が「お~になる」のように尊敬語に使われ、主体性に関わる「する」が「お~する」のように謙譲語に用いられる)等をとりあげつつ、考察されています。

では、なぜ、日本人は、日本の文化は、<主体>に対する拘りをあまり持たないのか?
ベルク氏は、日・欧・中の神話に描かれた宇宙の発端の姿の違いにもふれつつ、そのカギは、「与えられたままの現実」、つまり「自然」というものの価値を積極的に認める日本人のあり方にあるとしています。要するに、氏は、日本の文化には、「創造主」の存在が希薄であると言っているわけです。(このあたりの詳細は『空間の日本文化』Ⅰ「環境におかれた主体 空間の精神的組織化」の1「主体は適応可能である」に書かれています。)

                                                       准教授 加藤 薫

文化女子大学 現代文化学部 国際文化学科のHPはこちら
[PR]
by bwukokusai | 2010-12-20 18:12 | 教員コラム